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心新たに

僕は2010年12月15日にフランスから帰国。

じつに7年半、フランスで色々な出会いがあり、僕の価値観を大きく変えた。
フランス最高の熟成肉を扱うビストロ、さまざまな自然派ワイン、世界一のソムリエ、ワインの生産者、農、畜、漁、猟に携わる方々、有名シャトーのオーナー、最高といわれるレストラン。

そして、六本木 イ・ヴィニェーリ(i Vigneri)シェフを経て,2011年9月19日から、阿佐ヶ谷で、“ラ・メゾン・クルティーヌ”をオープンし,新たな季節を迎えます。


帰国直前は南仏のバスク地方との県境、PAUのレストランで働いていました。少し紹介します。

ポーのレストランの名前は Les Papilles Insolites (レ・パピーユ・アンソリット)。
ソムリエの友人に頼まれて2009年11月18日(新規オープン)から2010年12月10日までシェフをしてきました。
彼は23歳でフランス三ツ星のシェフソムリエ(世界最年少記録)としてミッシェル・ゲラールというレストランで7年間働いた 本物。
その他にも4件でソムリエをしているけど全て三ツ星。

そんな彼が自然派ワインと出会い、感動したのが2000年。
即、ソムリエを止めて、自然派ワインだけを扱うワイン屋で、自然派ワインに囲まれて働いてました。
僕の人生を変えた年”2004年”に、そのワイン屋さんで、僕らは出会う。
僕はすぐに自然派の魅力にはまり、彼と意気投合した。

そんな彼の名前は ジャン-パスカル・ロヴォル 
彼の働くワイン屋は、僕がシェフを務めるレストラン”la Maison Courtine” のすぐ近くで、互いに、互いの店の常連となっていた。
そんなある日、彼が僕に言ったんです。
「南仏にワインビストロを開きたい。一緒に来てくれないか?」 って。

そくOKしました。一年間の条件付きで。
その2年後、約束通り、僕らはポーで店をオープン。
彼がサービスして、僕が料理を作る。
いたってシンプルに。
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PAUに咲いた心の華

ポーで最初の僕の仕事は、古いバーカウンターの修繕と磨き上げ。
ジャンパスカルが骨董市で見つけてきた歴史を感じさせる、おんぼろ。
直すのに、親戚からおじいちゃん夫妻までみんなであーでもないこーでもないと話し合ってから、やっと修繕が始まった。
つづいて、店の内装も自分たちでできるところは全てやる。
店の権利を買って、建物のオーナーになった途端に僕たちのとった行動は”階段の壁を壊す”
ジャンパスカルと、2人で前から、ダサいよなこれ みたいに話し合ってたから、ハンマーで躊躇なく。
そんな感じで始まって、店中のペンキを塗って、
調理場の器具を全て僕が選んで、取り付けた。ダクト、冷蔵庫、食器洗浄機も全て。

棚やテーブルやその他すべてのものが、僕の動きに合わせた、配置、サイズになった。
僕は幸せもんだなと少し涙がこぼれそうだった。

で、2009年11月18日ボジョレーヌーボー解禁日に合わせてオープン。
小さな町、ポーでは伝説的な1年間の始まり。

賄い料理は、必ずお客さんが食べてるものと同じものを食べた。ジャンパスカルがワインを合わせ、2人で、色んなことを話す。理解しあう。
食材は、魚は漁港から直仕入れ、肉はパリのほとんどすべての三ツ星に卸しているフランス一と評される肉屋(一時期特別なバイトとして技術を学ぶ)と同じ肉をつかえた。
野菜は・・田舎なので生産者が採れたてを、毎朝市場に持ってくる。
僕は毎朝その日に使う分だけの野菜を買った。
豚肉は隣町のお肉屋さん。鴨は反対がわの隣町から。。。
なんでも探すとすぐに見つかった。
そしてみんなと仲良くなった。

日本へ帰国することを伝えると、誰もがまた必ず会おうと、約束を求めた。

僕は年に一度この街に帰る約束をかわして別れた。

まず、一年間ほとんど満席だった。 あんなに小さな町なのに3週間予約が埋まったこともあった。お客さんのテーブルへ挨拶に行くと、3つ星よりもおいしいと絶賛され、全てのお客さんが、僕を古い友人のように話しかける。
最高だった。
嬉しかった。
楽しかった


新規ドキュメント_2
「オープンして1ヶ月が経った頃、南仏の地方新聞にて。”プティオニオン”(密かなお気に入り)という見出しで紹介される。」

新規ドキュメント_2
 「オープンして3ヶ月が経った頃の新聞で。”味蕾を覚醒させる場所” として紹介。」

新規ドキュメント_5
 「オープン4ヶ月目にのった雑誌”SUD WEST”で。”ビストロ・ガストロ”(美食家のビストロ)と紹介。」

新規ドキュメント_1-1
「2010年10月にイギリス、フランス、アメリカで同時に発刊された ”ル・フーディング2010” 。 ”カーヴ・ア・マンジェ”(「料理が楽しめる専門ワイン店」部門)の2010年フランス最高のレストランとして。」


フランス


初陣。

海外渡航の経験過去になし。
飛行機に乗った事は、記憶もあいまいな幼き日に乗った小型セスナ機のみ。

もちろんパスポートはこの日の為に手に入れた新品。
有効期限5年か10年かで迷い、今まで必要なかったクレジットカードなるものを申請、導入。

やっとの思いで貯めたなけなしのお金を握りしめ、一番安い航空チケット片道切符を手に入れ、トランクいっぱいに詰め込んだ荷物と、同じくらいの希望を胸に

いざ出陣。


僕がパリのシャルル・ドゴール空港に降り立ったのは2003年6月4日


飛行機から降り、記念すべきフランス大地への一歩を感無量で踏み出す・・・と同時にいきなり衝撃!

自分が今、朝のパリに立っているのか、夕方のパリに立っているのかわからない。
時計の針は7時10分を指しているというのに、太陽がさんさんと輝いてる。(いま振り返ると、2003年から2010年の間でこの年の夏が一番暑かった。)

”朝か夕方か分からない!? 冗談だろ?” 全く想定していなかった感覚に、頭の中は軽いパニック状態。
自分の中の常識とか、当たり前が、いかに狭い世界の中で培われてきたかってことに愕然とした。

俺は、このまま観光するべき? ホテルを探すべき?
”これから夜へ向かうなら、出来るだけ早く宿を見つけなければ。言葉が解らないうえに、時間制限付きの緊急事態だ。
野宿だけは避けたい・・・いくら腕っ節に自信があっても、数人がかりで寝込みを襲われたらひとたまりもないぞ。”
とまで考えるも、
「ま、もう少しすれば多少空の明るさも変わるだろう。それから判断すればいっか。」
なんて・・・考えることの放棄。

そう。とんでもなく無自覚、無計画で来てしまった能天気男。それが僕。

今考えると、なんて、むてっぽうで、適当な。
自分のことを一言でいえば、単純一途な楽天家。。。そのまんまです。

フランス語も一切しゃべれず、手にはなんとなく必要だと思ったトランク一個分の荷物と、旅行者必携本”地球の歩き方”のみ。
当然観光ビザ(ワーキングホリデービザには2年前からチャレンジして、全く手応え無し。この後も、2度試みるが全く縁がなかった。。)で来たので、すんなり仕事に就けるとは思っていなく、半分観光気分。

日本を発つ前に出来ることはしておこうと、気になるレストランには手当たり次第に手紙を書き、返事を待った。 が、いい返事は全く帰ってこない・・・の前に読めない。語学力云々じゃなくて、達筆すぎてスペルすらわからない。

やっと解読できて、答えがNO!だと、がっかりするものですよ。。。
そうこうする間に出発の日。
僅かながらの期待と解読不能な手紙を握りしめ、飛行機に乗った。

確かスイス経由の便だったと思う。スイスで乗り換えた機内では何やらフランス語っぽい会話が耳に入った。
スチュワーデスさんを呼び止め、なりふり構わず手紙を見せる。 
”なんて書いてあるのですか!? ”
僕の片言のフランス語が通じたというよりは、熱意が伝わった感じで 手紙を読み始めてくれた。 

”よし!” 
これが足がかりになれば・・・

しかし、全ての手紙に NO と書かれていたのでした。 

分かってはいたけど、期待してしまったから少しの間ひとりで沈む。。。

というわけで最初の話に戻ると、今は朝?夜? 
フランス語は全くと言っていいほどわからず、英語もほとんど記憶になし。 当然案内看板も理解できないし、周りの人に聞くこともできない。 
ただ、”流れに逆らわず”の日本的精神(笑)。 
いのちづなである地球の歩き方フランス編を握りしめて、なんとか高速バスの乗り場まで流れ着いた。後は、自分の知ってる数少ないパリの地名を探す。 

・・・お!ガル・ド・リヨン(少し感動)!!! 
とりあえず乗ってみた。

空港ですでに1時間以上過ごしているのに空は一向に暗くならない。
「なんだ、この調子なら今日はこのまま観光かな。」
バスは空港を出て、どこかへ走り出した。
席について少し落ち着くと、今更のように頭が働きだす。
”まさか、ガル・ド・リヨンがパリと郊外に2つあるなんてことはないよな・・” 考え始めるとすべてのことに不安を感じ、それを解決する手立てはなかった。 
こういうときは考えるのを止めるのがベスト。   今更降りれないし、なるようになる。

「あれ?雨かな?」
なんか薄暗くなってきた。時計は9時30分を指している。いまだに目的地には着いてなかった。

自分の考えの間違いに気付いたのは時計が10時を指すころだった。
雨が降ってこない。。
「これから夜になるんだ!!!」

気づくのが遅すぎる。すでに22時。しかも世界一の観光名所パリで。
”終わった。。。”
脳裏を、ひったくりにあって無一文の自分の姿がよぎった。

パリ、ガル・ド・リヨン到着。

「諦めるな。」
ホテルを探そう。

一件目。時間がかかってやっと理解出来た言葉はNO。
2件目。先程よりは少ない時間で理解出来たけどNO。
3件目。ホントに暗くなってきた。”まずい。このホテルこそ頼むぞ”  
     すると・・・答えはYES!!!  
     よし!・・・ん?
      宿代が。。。 少しの間迷い、 仕方なくあきらめる。
トランクがすごく重く感じられてきたし、何気に結構歩いてきた気がする。 どっちへ? いまどこ? そんなことはどうでもよかった。どこでもいいから泊めてくれ。 

結局5件目でやっとベッドを確保。中は思ったよりもおんぼろなホテル。 ”まいっか”
次の日は、とりあえずシャンゼリゼ通りへいって、凱旋門を見に行こう!

と単純に決めて眠りに就いた

奇跡的な再会

フランス2日目

全てはこの日から始まって、7年半もの間つながり、僕を変えた。

パリの朝。思ったよりも快適な朝。気温も湿度もちょうどいい。
今日は、凱旋門を目指す。スーツケース片手にホテルを出た。
まずは朝食を。
節約のために、まずはスーパーを探し、パリ初めての買い物。 
レジで言われていることのほとんどは分からなかったけれど、レジのデジタルを確認し、慣れない手つきでユーロ硬貨を数える。10サンチーム、20、50、1ユーロ、2、5、10、20、・・・ややこしい。
なんとか数え、支払いを終え、朝食にありついた。

パリジャンの、フランスパンをちぎりつつさっそうと歩く姿を想像してのフランスパン購入も、でかいスーツケースを引きずるアジア系短足男がまねては絵にならないので、小さな公園のベンチで食べることにした。

途中メトロの看板も見つけたけれど、切符を買うなんて考えるだけでも(怖)ややこしい。 歩こう。
とにかくこの道をまっすぐでシャンゼリゼに着くはずだ。

思ってたよりも距離があることに気付いて(無計画すぎ。)、途中でホテルにチェックインし(一件目OKに歓喜。)、スーツケースを預け(少し不安。)、気分も晴れやか(?。)に凱旋門を目指した。

そして昼過ぎ。 凱旋門到着!!
が、結構歩き疲れてたので、上に登るのはまた今度。

結局、凱旋門を仰ぎ見るだけですでに感無量。 
ちょっとした達成感までがほとばしる僕には十分だった。

ひとしきり仰ぎ見たあと、シャンゼリゼ通りの反対側に渡って、来た道を戻ることに。

すると、少し先で日本人女性が黒人の男性に話しかけられている。
(・・・ナンパか?)なんだか困っている様子。
”ちょっと追い払うか。”
そのまま真っ直ぐに女性のほうへ向かった。
すると、彼女が手を上げ、右のほうへ合図している。
どうやら日本人男性との待ち合わせだったようだ。
黒人男性は、すぐにどこかへ消え、僕もそのまま彼女の脇を歩き過ぎることにした。

すると、間の悪いことにそのカップルも僕と同じ方向に歩き始め、シャンゼリゼ通りを日本人が3人、横並びで女性を挟んで歩く格好に。
”なんか変なことになっちゃったな・・・”
僕は仕方なく、何事も無かったかのように、前だけを見て歩く。
が、なぜか男性のほうがちらちらと僕のほうを見ている。

”俺は下心があったわけでもないし、ましてまだ彼女には声すらかけていない。・・・  未遂なのに”
と、心の中で言い訳していると、

”・・・さん、ぜんとうさん”
(!?)幻聴?

僕は耳を疑いつつ声のするほうを見た。。。
(!!)驚愕!

横並びになってしまった男性は、過去に修業したレストラン(三国シェフの2号店で、横浜スカイビルにあった。)で一緒に働いた後輩だったのだ。

日本でさえこんなことが起きたことは無いのに、異国の通りで起こるなんて!

なんという偶然。
しかも、彼は当時の店をやめてからまったくの行方知れずだった。
そんな彼がまさかパリに来ているなんて。
彼は、日本の店で共に働いていたころの僕に、とても恩を感じてくれていると言い、すぐに僕の力になってくれると申し出てくれた。
次の日に、彼は仕事先のレストランで、僕のようなビザなしでも働けるレストランはあるだろうかと訊いてくれた。
答えはYes 、しかも今働いている日本人が辞めるから、日本人の料理人を探してるという話だ。

なんてタイミングのいい・・・!
僕はすぐにそのレストランへ向かった。
そのレストランの名前はターブル・ダンベール

心が高鳴る。

僕はそのレストランを知っていた。本や雑誌によく取り上げられていた小さなお店だ。

僕はお店の扉をノックした。







一世を風靡した前衛的レストラン

< レストラン ラ・ターブル・ダンベール >  La Table d'Anvers
(兄)クリスチャン・コンティチーニが料理を、(弟)フィリップ・コンティチーニがデザートを担当。
その前衛的な料理とデザートのスタイルがヌーベルキュイジーヌの一角として話題を集め、多くの客を魅了した1つ星の名店。

そう。今まさにそのレストランの扉の前。
昨夜、必死になって最低限の単語を覚え、話すべき言葉をフランス語に訳して、手紙に書いた。
”最悪、全く話が伝わらなかったら渡そう。”
とにかく飛び込むしかない。
しかし、妙に不思議な感覚だった。
すべてにリアルを感じない。
そう、まるで映画の中にいるような。

そのワンシーンに出てくるような建物と、風景が、僕に勇気を与えてくれたのかもしれない。

"よし。"

僕は扉をノックした。
若いサービススタッフに、自分が料理人であること、ムッシュ コンティチーニとお会いしたいことを伝えた。

ムッシュがシェフルームから降りてくる。
すると、すぐに調理場で働く日本人料理人を呼んだ。
”あれ?”
気負って、頭の中で話すべき言葉を復唱していたところだったので、なんだか肩すかしをされたような格好になってしまったが、そんな僕と直接話すより、通訳さんがいた方がいいに決まっている。
”日本人料理人の訪問に慣れている”
そこから色々なことが予想された。

このレストランではたくさんの日本人が働いてきたのだろう。
だから、シェフは日本人の扱い方(僕のようにフランス語をしゃべれない料理人もいたかもしれない。)を熟知してるかも(喜)。
シェフや周りのスタッフの反応で、僕が歓迎されていないわけではないことが、むしろ、どこか安堵している様子が見える。ここで働いてきた先輩方が、そして目の前の日本人料理人が、信頼され、頼りにされているという表れだった。
この推察から、調理場スタッフの偏見や、嫌がらせも少ないであろうと思われる。

僕に少しの安心感を与えた。

「はじめまして」
奥から来た日本人料理人は屈託のない笑顔で現れた。
たった今まで戦場にいたかのような雰囲気を纏いながら。

張り詰める緊張、集中、無駄を出来る限り省く動き、スピード、そういった空間の中から、たった今出てきた、そういう力のある瞳、そういうしぐさ。

その彼は現在駒沢でオーボナクイユというレストランを開いている田中俊資シェフ(その当時は無名ですが(笑))。彼は僕をカズと呼び、僕は彼をシュンと呼んだ。

ムッシュとの面談はすぐに終わり、明日からこの店で働けることとなった。

”さてどうする”

その時の正直な感想がこれだ。
なにせ、住むところすら決まっていない。
まずは携帯電話が必要か・・・。

この3日後、部屋が決まる。
仕事をしながら休憩時間を使っての必要最低限の生活をするための手続き。
右も左もわからない異国の地で、手探りでいろんなことを理解しなければならない。
今では、細かい事はあまり思い出せない。
それだけ必死だったということだろうか。




                              



必死

フランス7日目
ターブル・ダンベールの初日

朝、店へ行くと、若い男の子と女の子がレストランの前で話している。
どうやら、ここの鍵はスーシェフ(2番手)しか持っていないらしい。
僕が、たどたどしく自己紹介をすると、彼らは気さくに話しかけてくれた。
やっと聞き取れたのは、彼らは見た目以上に若かったこと。
スタジエと呼ばれる研修にきている調理人もいた。

スーシェフが来た。
レストランの隣にある大きな扉へ案内され、暗証番号を教えられる。
エレベーターで5階へ、正面の扉が更衣室。

まず驚いたのが、女性も同じ更衣室を使うということ。
しかも僕ら男に混ざって、一緒に着替え始めた。

ぼくは背を向け窓の外を見るようにして着替える。
当たり前のように周りと話しながら着替えてるから、意識している自分がおかしいような感覚。
窓からはフランスの建物が見えた。
いまだに現実味がない。
遠くにはエッフェル塔も。
夜はライトアップされてキラキラと光り輝く。
僕らはレストランに入り、調理場へ。

新しい職場でまず大切なことは見ること。
何がどこにあるかをいかに早く把握するかということが特に重要だと感じていたので、まずはいたるところの引き出しや扉を開け、中身を把握する。

全ての機材の配置、それぞれのポジション。冷蔵庫の使い分け、ガス機材の使い方などを目で確認する。
言葉がわからないので、今までの経験を総動員して、周りの動きから何をすべきかを読み取り行動する。

言葉の意味は、周りの状況、動き、雰囲気、話し手の表情で推し量り、憶えていく。
調理場で必要な専門用語はある程度知っていたという事もあり、仕事のことに関してはあまり問題なかったが、プライベートの話を振られると困ってしまった。
しかも彼らは仕事のことより、プライベートの話を聞きたがる。
もう体裁なんか気にせずに、身振り手振りと、頭の中の少ない語録をフル回転でなんとかするしかなかった。。。

シャンブル・フロワと呼ぶ大きな冷蔵室は地下にあり、朝届いた食材、今日必要な食材を階段を上り下りしながら出したり、片づけたりする。そんな下っ端の仕事がひと段落したころ彼はやってきた。

そう昨日の日本人料理人、シュン。
昨日の話では、彼が近いうちに店を辞めるので、そのポジションに入ってくれとのこと。
シュンの仕事は・・・彼は大まかに説明してくれた。

彼の仕事はストーブ前。しかも一人でやっているとのことだ。
ストーブ前は火入れ全般を行うポジション。
いわばレストランの花形。
しかし、その仕事量は半端じゃなかった。
メインの料理は全て彼が仕込み、火入れ、すべてのソースは彼が作り、付け合わせの温野菜料理、スープ、温かい前菜の火入れまでをする。
ようは、火力を使うことは全て彼一人で行っているということだ。
正直まいった。
この仕込みをすべて僕が用意しなければならないのか。
営業中なんてどうなってしまうんだろう。

しかも、彼は2週間後に辞めるという。
ということは、休みの日を計算にいれると10日前後しかない。
実際彼から引き継げる期間(すべてを把握し彼と同じように動き、同じレベルのものを提供出来るようにするまでの)は7日くらいということになる。
残りの3日で、最終調整。全てをシュン抜きで行い、営業中の突発的な事への対処や、本当にやばくなった時のさばき方や優先度をたたきこむ。ようは、僕にシュンの代わりが務まるかどうかを見極め、仕上げる期間だ。

やるしかなかった。他に選択肢はない。

しかし、外様である日本人料理人にここまで任せてしまうレストランが他にあるのだろうか。

”必死になろう”
なにより、今までここで働いた先輩方の力量と、期待にこたえてきた歴史の積み重ねによって得た、この大きな信頼を僕が断ち切るなんてしたくない。この信頼を未来の後輩へとつなげなければ。

フランスでの仕事が始まった。



諸行無常

シュンがレストランを辞めた。

僕はというと、なんとか一員として認められたようだ。
営業中は、
2番シェフが全体を見てフォローする。冷たい料理担当の若者がまだまだなので、そこに付くことが多い。
僕が料理したものをムッシュ・コンティチー二が汗だくになりながら一生懸命に皿の上へ。
もういいお年なのに、先頭に立ち、より良いものを提供しようというムッシュの気持ちが、僕の心に響く。。

本場のシェフの気概がすぐそこにある。

それに加え、常に笑顔を向けてくれ、やさしく指導してくれた。(以前働いていた方々は、僕の知っているムッシュとは全く違う人格であったというけれど・・・)

他には、パティシエが一人、スタジエが1人と、アプランティー(料理専門学校からの研修生)が一人だった。


相変わらず忙しく、気の休まる時間などない。
仕事のことと、言葉を話すということの為に頭を使い続ける。

毎日が、とても濃密で緊張感のある、流れる時がスローモーションのような感覚。
それでいて、振り返るとあっという間だったようにも感じられる。

毎日が、得ることばかりで充実した日々が続いた。

日曜は休みなので、毎週土曜の夜はスタッフみんなで近くのディスコへ踊りに行く。
そのまま飲み明かしたりもした。

そういうことの全てに、感動があった。
常に、非日常的な映画の中にいるような感覚は感じつつ、これが現実であるという満足感が、僕の心をとても輝かせてくれる。

彼らとともにいると、彼らがプライベートの時間を有意義に楽しく使う事に慣れていることが分かる。
子供のようにはしゃぐ彼らのおかげで、僕も少し子供に戻れたようだ。

そんなふうにあっという間に一ヶ月が過ぎた。
途中、テツ(現在は、大阪の西天満にある、ランデブー・デ・ザミの大谷哲也オーナーシェフ)が新たに加わり、僕も慣れてきたために、自然にレストラン全体の士気が上がる。
素晴らしい料理が提供されていく。

”なんだかいい流れだ。まずはここで足場を固めよう。”
日々の料理に気持ちが入る。
言葉の問題も、周りの若い料理人たちが親身に理解しよう、伝えようと努力してくれるので(ただ単純にフランス人が話し好きなだけかもしれないけれど。確実に日本人の2倍は話している。)話をすることが苦ではなくなってきた。スタッフとの意思の疎通が日に日に楽しくなっていった。

そして・・・あれはパリ全体が薄暗くなったような雨の日。
ムッシュが、急に全員を呼ぶ。
何やら会議?みたいだ。

僕は行っても難しい話は分からないから、調理場に残っていようとすると、みんなに連れて行かれた。
居場所に困って、仕方なしに端へ付くと、ムッシュが話し始める。
とても緊迫した雰囲気。
ムッシュはいつもに増して真剣な口調。
スタッフ全員が、話に聞き入っている。
何とか理解しようと懸命に考えた。
なんとか聞き取れた言葉で、聞き取れない箇所の言葉を想像し、文章にしていく。

”えっ?”
思いもよらない文章になってしまい困惑してしまった。
スタッフの表情を見る。

”まさか・・・”

自分が理解した内容は、まったくの的外れではないようだ。

みんなが涙を流していた。

ムッシュの話が終わり、
みんなは散りじりにどこかへ。
僕は、若い料理人に話の内容を確認した。

推測は正しかった。
このレストランの買い手が決まり、レストランを手放す日が決まったらしい。
それが8月10日。営業は7月いっぱいということだった。
もとは、コンティチーニ兄弟で始めたお店。
しかし、仲たがいをし、弟が独立して出ていってしまい、しかも、それを区切りにミシュランの1つ星が消えた。
そうなると、食材もなかなかいいものが入らなくなったり、有能な人材が離れてしまったりと、心労が絶えなかったらしいのだ。

なんということだろう。
フランスで仕事をしていく覚悟を決め、アパートも借りて、スタッフともやっとコミュニケーションが取れるようになった矢先のこの事態。
後戻りはできない。
ここで地盤を固めるべく必死になってやってきて、やっと手に入れたフランスとの繋がりが今、このタイミングで断たれようとしている。

”このまま流されて繋がりを失うわけにはいかない”

僕は改めて、ムッシュと話をさせてもらった。
「やっと、仕事が始まりこれからだというのに、こういう状況になってしまって私はどうしてよいかわかりません」
そう正直に伝えると、ムッシュは、僕に次の仕事場を8件もリストに挙げ、その中であれば好きなところへ紹介しようと言ってくれた。たった一ヶ月半しか働いていないのに、就業証明も出してくれるという。

彼の話では、ぼくが来たときには、すでに店の売却を始めていたらしい。
”すまない。でも、また時期を見てレストランバーをやろうと思っている。そのときには必ず君も呼ぶ。だから電話番号を教えてくれ。”
そう言って、彼は僕の次の職場を用意してくれた。

7月31日。この日は、フランスでは稀にみる猛暑の日になった。
昼営業はせず、僕らは最後のターブル・ダンベールで、テ-ブルに付きお客のように食事をし、ワインを飲んだ。

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そしてこの夜、このレストランを愛した常連のお客ばかりを迎え、一世を風靡した前衛的レストラン最後の営業は幕を閉じた。



MOF


Meilleur Ouvrier de France
フランス最高技術者(フランス文部省が行う厳格な技術試験の合格者)

2003年8月28日
いま僕は、そんな偉大な料理人がオーナーシェフを務めるレストランへと向かっている。
そこは”ルレ・ルイ・トレーズ”という二つ星。
彼は以前、あの世界的に有名なトュールダルジャン(当時三ツ星)のシェフも務めていた・・・

話は少しさかのぼり、8月1日

この日はターブル・ダンベールの大掃除をしていた。
レストランを引き渡す為に,空っぽにする。そして,隅から隅まで大掃除。調理器具を運び出し,古くなって必要なくなったものは譲り受け,(僕は、古くなって柄がかけてしまった、骨を叩き割る為の鉈のような大きな包丁をもらった。)余った食材はみんなで分ける。(僕はチーズを5種類も貰ってホクホク顔。)もう必要ないもの(オープン当時からため込んだ、領収書など経理関係書類の山や、使わなくなっていた備品など)を処分し、地下に眠る膨大な量のワインを、10トントラックへと詰め込む。

今までたくさんの料理人が働いてきたであろうレストランの最後のスタッフになってしまった。
不思議な感覚。
空っぽになったレストラン。
古い壁。
色んな想いの染み付いた天井。
過去にたくさんの日本人料理人が働いて来たレストランが、ピリオドを打つ瞬間に僕は立ち会っている。
目に焼き付けておこう。

そして、ムッシュ・コンティチー二の書いてくれた就業証明書と、レストランリストを握りしめ、ラ・タ-ブル・ダンベールを後にした。

(こちらのお店は、2010年12月日本へ帰国直前も、パリでレストランとして運営されていました。)
(全く同じ場所に、ラ・ターブル・ダンベールという同じ名で。)
(人、内装、料理、サービスと、全てが完全に別物なのにもかかわらず。)
(有名になったレストランは,名前も一緒に売りに出すと,とても高値になるので、当時のムッシュ・コンティチーニがそうしたのも今思えば理解はできます。ですが、想いのある者からするとすこし残念な気持ちになります。。。)


貰ったチーズは大切に冷蔵庫に保管。
ゆっくり味わって食べよう。



帰宅し,少し休み、ムッシュに頂いたリストの上から順に電話をかけることにした。
何と2件も3つ星レストランがある。2つ星も2件、1つ星は3件。そして星無しが1件。

しかし、3つ星は両方とも料理人は多すぎるくらいの状況ですぐには難しいと言われた。

気を取り直し2つ星以下、全部にかけてみる。
が、電話が繋がったのは2つ星のレストラン1件だけ。なんとか面接を取り付けた。
残りは夏休みに入っていた。
この時に初めて知ったのだけれど,8月の約一ヶ月間、パリのほとんどの店はバカンスに入り,お店は営業しない。
ミシュランで確かめてみて驚いてしまった。

面接を取り付けた2つ星レストランに行ってみるが,ここが思いのほか大きなレストランで,宿泊施設も併設していた。案の定、朝食と昼食を作るキッチンに入ってほしいと言われ,ディナーを作るポジションにいつか入れるのか聞いたら、無理だと言われたので,勢いで断ってしまった。

仕事がない。ということは賄いも無い。

食費がやばい。
家賃もやばい。

ターブル・ダンベールの仕事がいきなり決まったあの頃,無我夢中で,とにかく急いで部屋を決めた。
しかし、今になって冷静に考えると、シャンゼリゼ通りから少し入った場所の、部屋から凱旋門まで歩いて2分なんていうこの状況、凄まじいのではあるまいか。 で、当然家賃もそれなりにお高い。

ターブル・ダンベールでは月給300ユーロ(4万円くらい)。貰えるだけでもありがたい。六畳一間くらいのここの家賃は600ユーロ(7万円くらい)。それに電気、ガス、水道、電話などの請求が加わる。
仕事していながらにしてこの大赤字状態。
それが・・・今となってはもはや収入すら無い。
部屋を借りる時には予想もしてなかったあっという間の無職。
こんなことになるのが分かっていれば、安ホテルを転々としながらでも,もっと安いところをじっくり探したのに。
敷金礼金も払ってるしそうそうに部屋を変えるなんてできない。

どうしようかと悩む僕に追い討ちをかけるように、8月3日からの1週間、ひどい猛暑となった。
この暑さで、パリでは死人さえも出ている。

3日目くらいまでは、何とか耐えられるかなとも思っていたけれど、いつまで続くかもわからない状況に、4日目の8月7日、なけなしのお金で扇風機を買うべく,思い当たる電気屋をさがす。

・・・が、ない。決死の決断で買うことに踏み切ったのに。
こうなったらとことん探してやるとか思いながら、半分意地になって探したけれど,どこにもない。

もともとパリはそんなに気温が上がることも無いので、クーラーはほとんど必要なく、普及もあまりしていない。(という事実はこの頃の僕は知らないけど。)ま、クーラーが無いのはまだ許せる、というか理解出来る。
けれど何処へ行っても扇風機が見当たらないというのは信じられない。身振り手振りで聞いても”ない”のいってん張り。

ありえない!

日中は40度以上夜ですら35度くらいある(と思う)のに。

フランスの非常識さ、もしかして扇風機というものが開発されていないのかも!? ということに一人で文句を言いながら帰宅。 しかたなく日本から持ってきた下敷きでとにかくあおぐ。
昼も、夜もあおぐ。

 この当時は知らなかったのですが、実は、扇風機が開発されていないはずもなく(汗)、この年の異常な暑さでたくさんの人が一気に買い求め、(例年は必要なかったためにほとんどの家庭で使われていなかった。)売り切れ状態の真っただ中に僕は買い求めていたらしい。
で、翌年の夏にはいたるところで扇風機が余っていた。(僕は喜び勇んで買い求め、しかし、扇風機の出番は数えるほどしか・・・。)

 しかし、助かることに、僕が借りた部屋は、タイル張りの床だったので、寝苦しい夜は真っ裸(スイマセン)でタイルの上に横になる。自分の体温でタイルが暑くなると、転がって少しでも冷めた場所を探す。(最低と思われるかもですが、実際死人も出てるくらいの異常気象なので許して下さいっ。)
それでも、大体朝方には全ての場所が体温で温められてしまって寝る場所がなくなるので起きた。

8月10日くらいまでは、僕は人知れず逝ってしまうのかもと脳裏に浮かぶくらいやばかった。

冷えた水のありがたみ。冷蔵庫(極小)というものに感謝しながら過ごした忘れられない1週間になりました。
あ、でもその感謝の冷蔵庫に大切にしまっていたチーズを食べようとタッパーを開け、口に持って行ったら,目の前で綺麗な蛆君がたくさんうごめいていたときは死ぬかと思いました。

極秘 スタンプラリー


8月の猛暑をやっとの思いで乗り切り、2003年8月28日。

いま僕は、偉大な料理人がオーナーシェフを務めるレストランへと向かっている。
そこは”ルレ・ルイ・トレーズ”という二つ星。MOFを持つムッシュ・マルティネズの店だ。
彼は以前、あの世界的に有名なトュールダルジャン(当時三ツ星)のシェフも務めていた。


ターブル・ダンベールと同様に、まずシェフと面接し、給料交渉をする。
今回は、最低でも家賃と同じ額は払ってもらえるようにと、心に決めてのぞんだ。
すると、あっけなくOK。
設定をもっと高くしておけばよかった・・・。

僕は労働許可を有するビザがないので、当然(こらこら!)、不法労働となる。(と、今だから言えますが、こんなことをしてはいけません。)

給料も手渡し。チップなどの不透明な利益から出されるお金。

フランス政府は警察と共に不法労働を厳しく取り締まっている。
見つかったら、店には多額の賠償請求(店がつぶれるほどの額)と、半年~2年間の営業停止。不法労働者は荷物もそのままに自国への強制送還、以後5年間(だったかな?)は入国禁止となり、それ以降の入国も厳しい条件となる。

そうそう、こんな恐ろしい情報をターブル・ダンベールの頃に聞いていた僕は、8月後半の家に閉じこもっているのも飽きてきた時期に、極秘任務(本人にとっては)を敢行していた。

また少し時間を遡って,8月20日

観光ビザ(滞在許可3ヶ月)だけでも切らすまいと、一泊二日のスイス出入国スタンプラリー。

観光しています、フランスを出てまた観光に戻って来ちゃいましたと、ばればれの言い訳をするためのスタンプ。
どこまで通用するのかはわからないけど、無いよりは幾分 気が楽。

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物価の高いスイスのブリュッセルでやっと見つけた安宿。
内装は思った以上に洒落ていて驚いた。
荷物を預け、夕暮れ時に街を少し観光した後、一階のバーでスイスの雰囲気を感じながら一杯やる。

助かったのはフランス語が通じること。金額表には、フランス語、スイス語、英語と3パターンで明記してあった。
調子に乗って、片言のフランス語で店員に「洒落た部屋で驚いた」と話してみると、オーナー2人が"ゲイ"なので、とてもセンスが良く、他のお客さんにもとても好評な内装だと自慢していた。
たしかに、男性的とも、女性的とも違う独特の個性がある。
スイス的なすこしミニョン(子供の様な無邪気なかわいらしさ)な印象をベースに、非常にうまく造り上げているな~と感心しながら一夜を明かした。

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近くにあった、小さくってとてもかわいらしいパン屋で朝食をとり、少し歩いて、昼食はバーの店員に聞いた地元の人が好むビストロへと入った。
坂だらけの場所の坂の途中にある、ドイツ料理的な感じのビストロ。おすすめもドイツ料理だった。

せっかくスイスに来たからと、思い出にCDを一枚購入。
店に入ると迷わず女性店員に声をかけるが、「スイス人が好んで聞いているCDを買いたいのですが、おすすめを教えていただけますか」という、あまりにも漠然とした僕の頼みに、だいぶ戸惑わせてしまったようだ。。
最終的に、彼女が好きなCDでもいいからということにして勧めてもらったのが、スイス人が歌う英語の楽曲で、これまたミニョンな一枚でした。

そうして、色々な文化が見え隠れした街ブリュッセルを後にして帰路へ着く。

しかし、今回の初観光ビザスタンプラリーは、陸路、しかも同じ EU 圏内の、行き来の多いスイスを選んだために、出入国審査は簡単なものだし、スタンプも押されずに通されてしまった。

一度出てしまってから、警察を捕まえて一生懸命説明し、なんとか別のスペースに設けられていたスタンプスペースまでたどりつく。

見通しのつかない ”大赤字状態で敢行した旅の主旨” が完遂できなくなるところ。あぶないあぶない。








ルレ・ルイ・トレーズ

サン・ジェルマン・デ・プレの一角にある、ルレ・ルイ・トレーズ(Relais Louis XIII)

もとは、アンリ4世が暗殺された1610年、ルイ13世が王位継承した修道院。

セーヌ河に程近い静謐な路地の三叉路に佇む小さなレストラン。
古びた木製のドアを開けると、ステンドグラス窓から入る光が美しい中世のフランスを感じさせ、石造りの壁には大きな木の梁が主張をし、そこに飾られるルイ13世と王妃の肖像画がさりげなく歴史を語る。

オーナーシェフ、マニュエル・マルチネズ(Manuel Martines)は、「ルドワインヤン」「クリヨン」などを経て、「トゥールダルジャン」の3つ星時代に料理長を務める。その後こちらを買い取り、2001年からミシュラン二つ星。

こんなレストランで仕事が出来るなんて、考えもしなかった。

そこにいるだけで想いを馳せることができる空間。
日本では、老舗のお店や、旅館で感じることが出来る感覚。そんな場所もどんどん少なくなっているように思う。
保守的だと言われるフランスの素晴らしい一面だろう。

面接の前日に下見に訪れて、どうしてもここで働きたくなった。
入口に表記されているメニューと、ア・ラ・カルトをすべてノートに書き写し、頭に叩き込む。


さて、
ぼくは9時に面接をし、そのまま仕事を始めることとなった。

厨房に行くと、こちらでも日本人の料理人が働いている。
その人は、現在横浜でVERVEINEのオーナーシェフをされている阿部正彦さん。
2番のニコラが別のレストランに移ったばかりということで、調理場にはなんと、25歳のフランス人と、マサさんしかいなかった。
魚料理は25歳の彼、肉料理はマサさん、前菜は、仕込みを僕がして、仕上げるのはムッシュマルティネズ。
この2つ星レストランの調理場が3人だけって・・・。


とにかく、僕はマサさんに一通りのことを訊いて、仕込みに取り掛かる。
人手が足りなく、時間がないので、失敗は許されない。
訊くことも最低限にしなければ、マサさんの仕事の時間を奪うことになる。 (このとき、マサさんも肉担当になったばかり。手探りで仕込みをしている状態だった。)

僕が仕込んだものはマサさんに確認してもらい、後は、営業中のムッシュ・マルティネズの反応や表情から評価を盗み得る。マサさんのおかげで、ムッシュ・マルティネズの機嫌を損ねるようなことはなかった。

やはり最初に、少し入り組んだ地下にある冷蔵庫と倉庫のなかみに一通り目を通した。
食材はほとんどの場合、地下に駆け下りて探してこなければならず、その全ては僕に命じられた。
前日にメニューは頭に叩き込んであったので、使うであろう食材や料理法、料理用語なども絞りこむことが出来て、ターブル・ダンベールの時よりも早く全体を把握することが出来た。

しかし、25歳の彼には参った。たった今地下に下りて食材を持ってきたばかりなのにまた頼まれる。さっき頼むのを忘れたとか、仕込みの段取りの悪さの為に。
頭にきたので、初日に彼のほとんどの仕込みの段取りを把握して、次の日には彼に言われる前に、朝から僕のペースで食材を準備した。2人の状況を常に観察しながら仕事をし、自分の仕込みの為の食材を探しに降りるついでに2人がそろそろ必要であろう食材も一緒に持ってくる。
こうすることで、地下に降りる回数が激減して、その分自分の仕込みのクオリティが格段に向上した。

デザートなどのレシピの決まったもの以外はそれぞれの判断に任されていた。
僕は、過去の経験をフル活用して、最善と思われる下準備と仕上げをしなければならない。
そして常にどんなことも”見逃がさない”ことでムッシュ・マルティネズの好みとスタイルを理解し、知識に上書きしていく。


話は変わりますが、こちらのように、2つ星ともなると、サービスの若いソムリエでさえも自意識過剰になるらしい。
僕に話をする言葉の端々や、指示を出す際に、外人として見下しているような風が見える。

ある時、「お前たち日本人はいつも掃除ばかりしている。少しは料理をしろ」と。これには呆れてしまった。
僕が仕事をする前菜場とデザート場はサービススタッフから一番近いところにある。彼らからしたら一番 目に入る場所で働いているわけなので、裏を返せば、周りを散らかすことなく、料理がスムーズにストレス無く提供され、手の空いた時間を使って常に掃除をしているということ。
ソムリエの彼にとっては、25歳のフランス人の彼のように、営業中に常にいっぱいいっぱいで、ガチャガチャと料理を仕上げる様が、一生懸命で頑張っているものの姿であるようだ。

ま、どちらにしろ、僕は、自分の任されたことをそつなくこなし、25歳の彼、まささん、ムッシュ・マルティネズのために一貫してフォローするだけ。そこに意識を集中させた。

こうやって、朝8時に調理場に入り、15時から16時まで休憩し、16時から24時まで働いた。
通勤に片道30分の所に住んでいたので、休憩中に部屋に帰っても仕方がない。
せっかくなのでサンジェルマン・デ・プレを散策することにする。
この辺りは、こじんまりとしていて古い建物や路地が多く、とてもフランスらしい街並みで、気分転換にはうってつけでした。
そして一通り散策してしまった頃には、サンジェルマン・デ・プレの橋のたもとで、セーヌ川の風を肌に感じ音を耳で拾いながら,贅沢な昼寝をするようになっていた(これがかなり気持ちいい)。

土曜の夜は、日曜が休みなので大掃除をしてからの帰宅になる。全てを終えるのは夜中の2時、3時になるので、終電も無くなって、3時間かけて歩いて帰った。
夜中のパリの中心をシャンゼリゼへと歩くのも結構いいもので、すごく疲れきっているのに、毎週の休み前のこの散歩が気に入っていた。

こんなふうに2週間が過ぎ、ムッシュマルティネズにも気に入られはじめたころ、日曜を利用してケイタリング兼、料理教室を美術館で開くことになる。
この一日は、ムッシュ・マルティネズを物語る、とても印象的な日となった。



なんて唯我独尊な・・・

 ケイタリング。
前日から、少しずつ準備を始めている。
美術館でのケイタリングなので、忘れ物は許されない。
日曜の朝方に調理場に集まり、最終チェックをしてムッシュ・マルティネズの愛用車に荷物を詰め込む。
よく花屋が使うような小さなバンだ。両サイドにルレ・ルイ・トレーズと大きく印字された半ば宣伝カーの様なその車は、ランジスと呼ばれるパリの築地へ買い出しに行く為に欠かせない存在。

ムッシュ・マルティネズの運転で、僕とマサさんは荷物が崩れないよう荷台に乗り込み、美術館へと走り出した。

 ”パップヮーーー”
いきなりクラクションが鳴り響く。
まだ走り出して1分もたたない。
何事かと周りを見るが、よくわからなかった。

 スピードが上がる。
と、急ブレーキ。
”パップヮーーー”
クラクション。

 おいおい・・・
僕とマサさんは顔を見合わせてしまった。
まるでこの道は俺の道だと言わんばかりの運転。

 我が物顔で車線変更やクラクションを繰り返し、挙句には窓を開けて、信号待ちをする車に叱りつけている(罵声ともいう)
 ”え~っと、この車には大きくレストラン名が書かれているのですが…”
男ムッシュ・マルティネズ、そんなことはお構いなし。

 僕の中の、ルレ・ルイ・トレーズで働いているという誇りが削り取られてゆくので止めてください…。



 普段からものすごく自己中心的な人だとは感じていました。
笑い方も”ガッハッハッハ~”となんとも自己主張の強い。
営業中の後半は、客席で自分アピールも欠かさない。
営業中に仕込んであるものや料理に納得がいかないと、作った本人へ投げる。
そうそう、一度僕の顔に、じゃが芋が誤爆したことがあった。
何事かとムッシュを見みると、ムッシュがヤバって顔してわずかだが頭を下げたので、あ~隣のこいつに投げたのかと。
一瞬だったけれど、キングが僕に頭を垂れる。ただそれだけのことで無かったことに出来てしまう僕はやはり、何処までいっても小物なのだろうなぁ…。

業者が食材を届けに来ると、物が良い場合は、どうだ(俺様の食材は)と言わんばかりに僕に自慢し、物が悪い場合は、大声で業者への罵声が飛ぶ。
 たしかに、食材の良いものは素晴らしくいい。
ピレネー山脈で育った乳飲み仔羊が一頭丸のまま届き、野鳥類も綺麗な毛艶のものばかり。
セップやジロールやモリ―ユといったフランス独特のキノコは見事な大きさと香り。
 週に一度来ていたトマトだけを育てている農家のバンには、色とりどりのトマトが10種類以上。
黄色はもちろん、ゼブラと呼ばれる縞模様、パイナップルの香りのするトマト、緑色のまだ熟れていないような、しかしとても美味しいものなどなど、トマトだけで2つ星レストランの一皿が完成するほどのクオリティ。

 そう、想像はしていました。
が、パリの無秩序的なあの車道をここまで我が物顔で運転できる人は、後にも先にもこの人だけ。
 パリの車道は、自転車、若者が乗る危なっかしいスクーター、ペーパードライバーや老人の運転でふらふらしている車、スピードを出すタクシー、ウインカーを点けなかったり点けっぱなしだったりする車、などに加えて、車線がきちんと区切られていない個所は信号待ちで車6台横並び、なんてこともあるし、信号機の代わりに交差点にあるロータリーは出口があちこちにあってややこしい。


確かに周りに気を使ってばかりではパリの車道は走れない。ここまで唯我独尊的だと色んな意味であきらめもつく という感じ。


やっと美術館に着いて荷物をおろす。
ムッシュ・マルティネズは25歳の彼に指示を出しどこかへ。
僕とマサさんは、25歳の彼と共に穴倉の様なほの暗い、50年前のまま時がとまったような古びたキッチンへと入り、準備と、本格的な料理を始める。まずは火入れに時間のかかるものからとりかかる。用意してきた肉をオーブンへ。
今回は50名の料理をここから提供する。

ある程度準備できたころ、いきなりムッシュ・マルティネズがマダム達を引き連れてキッチンに入ってきた。
”おいおいっ”
こんな話は聞いてない。
20人くらいのマダムが入ってきただろうか。いきなりキッチンが占拠された。
僕らは当然仕込みどころではなくなった。
マダム達はあちらこちらを覗き見て、おもいおもいに話し始める。

僕とマサさんがそれでも出来ることをやろうとしていると、25歳の彼が耳打ちする。

”シェフが客に今回のメニューを伝えたら、マダム達に喰い付かれて、急遽、その料理工程を公開し、挙句にはデザートの実演もすることになったらしい”

なんてこと。
いつものムッシュなら軽く断っただろうに。
と思いながらムッシュ・マルティネズを見ると、まんざらでもない様子。
マダム達に囲まれてちょっと照れながら、しかし誇らしげに、食材や仕込みの状況と、料理を説明し始めた。

・・・伊達男ぶりがここにきて遺憾なく発揮されている。

そのままデザートの実演へと移る。

 今日のデザートはチョコレートの半生タルト。
さすがは2つ星と思わせる、僕もお気に入りの素晴らしいタルトだ。
そのルセットは門外不出であってほしかったのだが・・・という僕の気持ちをよそに、実演は始まった。
が、もともと実演なんて聞いていないので、そのための準備などは出来ていようはずも無く、ハラハラさせられる。
ムッシュ・マルティネズがこのタルトを作るのは、かなり久しぶりと見えて、工程がばらばらだし、分量もところどころあいまい。いつもは僕が作っているので、僕がフォローするしかない。
あいまいな分量をこっそり測り直したり、次は泡だてる必要があるのにマダム達の後ろの方に隠れていたホイッパーを探し出して渡したり、オーブンの温度を上げておいたり。
あくまで目立たず、ムッシュの実演の流れを止めず、マダムに気付かれないようにフォローするのはなかなかにしんどく、でも楽しかった。

この予定外の実演で、ムッシュの僕に対する信頼が大きくなり、その後の僕に対する扱いも変わっていくようになる。



ある日の出来事。

ある日のこと。

仕込みの時間にムッシュがいる。
どうしたのだろうと思いながらいつも通りに自分の仕事をしていると、どこかへ電話をかけ始めた。
「もしもし、おう、俺だ、ムッシュ・マルティネズだよ。お前のとこで出しているあれ、そう、あのデザートのレシピをくれ。」

”おいおい、いきなり何言ってんだこのおっさん”
こともなげに聞き出して、作りはじめる。こんなことが1度や2度ではなかった。
しかも三ツ星のパティシエから聞き出してることもあった。

さすがにMOFを持つ、もと三ツ星のシェフは、こんなことも許されるのか。


ある別の日に。

「おう、マサ、カズ、今日は日本人が食いに来てるぞ。がっはっは~」
と言われ、
『そりゃ来るでしょうよ、二つ星なんですから。』
なんてそっけなく返した。


次の日。

「おう、昨日の日本人がまた食いに来てるみたいだぞ~~」
と言われ、
”そうですか。こっちはちょっとそんな話を聞いてる暇すらないほど忙しいんすけど~”
なんて心の中で叫ぶ。


そのまた次の日。

「おう、また来てるぞあの日本人。ちょっと顔出してきてやるか。」
と言われ、
これにはびっくり。
同じ店に三日連続で来る日本人ってどんな人なんだろう。
マサさんの作る肉料理に感動されたのだろうか。
そう考えるととても嬉しかった。

「マサ、カズ、ちょっと来い。お前ら彼と少し話ししてこい。」
そうムッシュに言われ、マサさんと共にそちらへ行くと、ムッシュ・マルティネズにその日本人の名刺を見せられた。
(北島亭)!?
ムッシュの後ろには、なんと北島亭の北島素幸シェフが立っていた。

一気に緊張する。
まさか、北島シェフとここで会おうとは。

僕は個人的に勝手に北島シェフを尊敬していて、北島亭で食事して感動したこともある。
が、今回は立場が逆。北島シェフは、この三日間の料理を凄く気に入ってくださり、とても美味しかったと。
 何ということだろう。北島シェフがフランスで働かれていたころの話をされて、握手までさせていただいて、頑張って下さいと面と向かって言われた。

嬉しかった。ここで働いてよかったと心底思った。


北島シェフを見送ってからムッシュマルティネズがやって来て、
「おう、彼は日本でビストロを開いてるとか言ってたけど知ってるか?」
と言われて、びっくり。
マサさんと2人で必死になって否定した。
「もちろん知ってます! でも、ビストロって…ムッシュ、あの方のレストランはガストロですよ! すっごく有名な、日本を代表するグラン・シェフ(偉大なシェフ)です~~~!」
って、あまりのことに2人でしどろもどろになって訂正する。

「そうかそうか~、ガッハッハッハ~」
と高笑いしながら満足そうなムッシュ・マルティネズでした。




挫折


9月の第4週頃から、だんだん調理場で働く人数が増えていく。

最初は、料理学校から派遣される15歳の若者だった。
アプランティサージュと呼ぶフランスのシステムの一つで、彼らをアプランティと呼ぶ。
要は現場での実技研修で、2週間学校、2週間レストランと、サイクルを決めて研修させる。

 彼には、セップやジロールに付いた土や木の葉をはけで一つ一つ落としていったり、サラダとなる小さな葉っぱの一枚一枚を、よいものとそうでないものとに選り分けたり、虫が付いていないかを確認したりという仕事が与えられる。
普段は僕の行う仕事なので、僕が彼を管理することになった。
 
 彼は僕を「Tsubasa」と呼んだ。
ある日、白いんげん豆がさや付で大量(50kg)に届いたので、彼と共にひたすらさやを外し、よい白いんげん豆だけを仕分けしながら、いつものようにフランス語を話す勉強を兼ねて、言葉を教えてもらいながら作業を進める。
そして、その時になぜ僕のことを「Tsubasa」と呼ぶのか聞いてみた。
すると、「カズ、マンガの”OLIVE et Tom -CHAMPIONS DE FOOT”知ってるでしょ?」って。
いや、知らないので、No というと、そんなはずはない。凄く有名なサッカーマンガだよって。
一生懸命に説明してくれる。
ところどころフランス語が分からないながらも、「あ~”キャプテン翼”か!!!」ってことになって、なぜかその翼くんと僕が似ているらしい。
どうやら彼としてはとても親しみをこめて、僕を「Tsubasa]と呼んでくれているようなので、”ま~、いっか。”ってことにした。

しかし、当時ですでにフランスでは、マンガがすごく広まっている。
とくに日本のマンガは”奥が深い“と言い、とても評判がいい。
マンガ本一冊が、翻訳料やら何やらで、1000円くらいもするのに、売れている。
それに、インターネットではどんなマンガもすぐに翻訳付きで見られるようになってて、僕も見たことがない日本のマンガなどをフランス人が知っていたりしてびっくりしたことが何度もあった。


この頃、毎週土曜日には、普段はホテルの調理場に勤務している若い料理人が、休日を利用して夜営業だけアルバイトにやってくるようになっていた。

そして10月に入り、この年に開催されているMOF試験の一次、二次審査を通り、本格的に合格を狙う為、MOFを持つムッシュ・マルティネズに師事する為に移ってきたフランス人(35歳)が加わった。
この時期は人が動く時期なのか,他にもここで働きたいと申し出るフランス人が多く,調理場にフランス人が増えてきた。

そんな中で、あの事件は起きた。

その日は土曜日。例のホテルからのアルバイトが来ている日で、普段は僕が営業中にサービスからオーダーを受け取って、提供した料理と、これからとりかかるべき料理の管理をしていたのだが、そのポジションをそのアルバイトがやりたいと言うので、サービスとより緻密なコミュニケーションがとれるだろう彼に任せることにした。(彼はフランス人だし。)

僕が他の仕事をしていると、MOFの試験を受けている35歳の彼が声をかけてきた。
どうやらペンを貸して欲しいらしい。
新しい調理場に来ているのにメモ帳とペンを持っていないなんて考えられなくて、”いらっ”としながらペンを貸してやった。

そして、すこしたった頃、オーダーが入りはじめた。
すると、先程オーダーの管理をかってでたアルバイトが、僕にペンを貸してくれと言ってきた。
オーダーをチェックするのに必要だと言う。
そりゃ必要だけど、お前もペンを持っていないのかよと”いらっ”として、「あそこの彼にペンを貸しているから持ってない」
って言うと、返してもらってこいと言う。じゃーお前が言ってこいよとか、今必要だから返して貰えとか少し言い合って、もう面倒くさくなったし、まぁ、35歳の彼も今は使ってないみたいだから俺が返して貰ってくるか。

で、返して貰って、そのままアルバイトに貸してやった。

すこしたって、今度は僕がメモを取りたいことが出来たので、アルバイトに少しの間ペンを返してくれって言うと、彼に ”No!"と言われた。
これには腹が立つが、営業中だし、静かに

僕 「いや少しの間だけなんだ。」
彼 「いま、俺にはこのペンが必要なんだよ。」 
僕 「今のこの瞬間お前使ってないだろ」
彼 「・・・」
僕 「それは俺のペンなんだ、すこしの間返せよ!」

彼 「お前、何言ってるかよくわからね~んだよ!」
そう言いながらめんどくさそうな顔して僕の胸のあたりを押してあっちいけというような態度をしている。

これにとうとうブチぎれた。
彼を蹴り倒す。

が、ここで周りが事に気付き、僕は後ろから抑えられた。
ムッシュ・マルティネズがアルバイトを呼ぶ。
どうやら彼に事のいきさつを聞いているらしい。

”クビだな”
僕はそう思って、でも半ば、”おう出てってやるよ”くらいの気持ちで包丁をまとめて出口へ歩きはじめると、案の定、後ろから
「出ていけ!」
というムッシュの声が聞こえた。

そのまま僕は出ようとすると、35歳の彼が来て、僕を止める。

「君じゃない」

僕は振り返り、ムッシュを見ると、彼はアルバイトに向かって怒鳴っていた。。。


この夜、僕は眠ることが出来なかった。

くやしい。

アルバイトと言い争う途中からだんだん腹が立ってきて、確かにめちゃくちゃなフランス語だったのだろう。それすらよく覚えてはいない。

「お前、何言ってるかよくわからね~んだよ!」

この言葉が耳から離れなかった。


それからしばらくしてマサさんが辞め、新たに一人の日本人の料理人が加わった。

 マサさんの仕事は35歳のMOF試験を受けているフランス人の彼が引き継ぐことになる。
この頃からより充実した日々となった。

この35歳の彼のおかげで、MOFの試験内容や、実技の課題などをムッシュ・マルティネズが話す機会が一気に増えた。

常にムッシュと35歳の彼は、実技試験の試作や、課題内容を議論している。
僕は自分の仕事をしながら付かず離れず位の距離を保って、常に盗み聞いていた。
”ズッキーニのスフレ”とか、”鶏のトサカの料理”とか、古典料理がたくさん出てくる。
メモ帳に書き留めるべきことばかり。

充実していた。書き留めたことを部屋に帰って調べ直すことが楽しくて仕方がなかった。


しかし、新たに加わった日本人の料理人は、なかなかこの調理場に慣れず、いつもおたおたして、ことあるごとにムッシュに怒られていた。
何とかしなければ。
そう僕が考えていた頃、調理場の人数が増えてきたこともあり、35歳の彼の意向で、肉の付け合わせ担当を決めることになった。
やはり普段フォローしている僕に声がかかる。

が、そうなると、今僕がやっている追い回し的な事は、あの日本人の料理人がやることになる。
”どう考えても無理だ。”
全体の状況を把握して、臨機応変に対応することはあの日本人の料理人にはまだ出来ない。

僕は、肉の付け合わせの担当に日本人の料理人を推薦した。
ポジションが決まって、すべきことが限定されれば、いくらあの人でも慣れるのにそう時間はかからないだろう。

僕は、彼に肉の付け合わせの仕込みや、営業中の流れなどをアドバイスする。思ったとおり彼はそのポジションに日に日に慣れていった。


そんなある日のこと。
僕は営業中、いつものようにオーダーを管理していると、サービスとお客様の間で何かイレギュラーが起きたらしく、バタバタとサービスがやってきて、お客様の要求を僕に一方的に伝えて戻ってしまった。
だが、僕には、内容が全くと言っていいほど理解できていない。

焦る。
何とかそのサービスを呼び戻し、訊き直す。

が、当然いっきに料理の流れがぎくしゃくし始めた。
すでに時間もロスしてしまっている。
なんとか流れを戻そうとすればするほどに、サービスとのコンタクトミスが起きる。
調理場で掛け合うフランス語がいろんなところから聞こえてくる。
いつもは聞き取れていたはずのその内容すら、多すぎて頭の回転が追いつかないと感じる。

営業を終えたころに、ムッシュ・マルティネズがやってきた。

「なんだ今日の営業は。カズ、今日のあの日本人はミスなくきちんとこなした。素晴らしい。だが、お前はゼロだ」

頭が真っ白になる。
”お前はゼロだ。”
ゼロ・・・。
”あの日本人に比べ、お前には何の価値もない”


そのまま僕は地下に降りた。
涙が・・・
涙が溢れてくる。


くやしい。
こんなに悔しい事はない。

でも当然だ。確かにあの人はこのレストランの一員としてきちんと役割をこなしている。
それなのに僕は…。

僕はもう必要とされていない。
実際、調理場には料理人が溢れている。


なんていう悔しさだろう。

フランス語が分からない。
フランス語が話せない。

それは重大なことだった。
いままでうまくやってこれたのは、ただ運が良かっただけなのだ。

「お前、何言ってるかよくわからね~んだよ!」
アルバイトの彼の言葉が頭の中で何度も響く…


言葉を学ぼう。
こんな当たり前のことに本気になるのが遅すぎた。
必死になって言葉を勉強しよう。
仕事をしながらではなく、きちんと学校へ行って学ぶべきだ。
そのためには一度ゼロに戻らなければ。
いや、ゼロに戻るべきなんだ。


僕は、このレストランを辞めることを心に決めた。

その後何度もムッシュに、話がありますと持ちかけるが、ムッシュは相手にしてくれなかった。
今は忙しいとか、後で聞くとかで、はぐらかされる。

しかし、僕はもうここで仕事を続けられる精神状態ではなかった。
そしてとうとう、今までのようにはぐらかされて立ち去るムッシュの後ろ姿に、

「今日で辞めさせて頂きます。本当にありがとうございました。」

と、頭を下げながら一方的に別れを告げ、包丁をまとめ、この素晴らしいレストランを後にした。



最悪の結末だ。

悔しさと罪悪感と後悔の念。


自分が恥ずかしい。


もう後戻りはできない。
もうルレ・ルイ・トレーズには来れない。
もうムッシュ・マルティネズにお会いすることは出来ない。



ここまでつながってきたフランスでの細い糸を自ら断ち切ってしまった・・・。




出会い

ルレ・ルイ・トレーズを辞めた次の日に、オペラにある語学学校への手続きをしに行った。

僕が入った語学学校は、パリに幾つかある学校の中で一番授業料が安かった。
授業は月曜から金曜までの午前中に2時間だけ。なのでたくさん宿題をだされる。
授業時間が短いので、教科書の進みは早い。予習復習をきちんとしなくては。

土、日は学校がないので、今までは たまに顔を出す程度の日本人料理人の集まりに、ちょくちょく出るようになっていた。

その集まりには、ターブル・ダンベールで出会ったシュンの勧めで行くようになる。
そこにはいろんな料理人が集まった。
ほとんどがジュンの部屋でひらかれる。

ジュンこと、現在和歌山県のHotel de YOSHINO でシェフとして腕をふるう手島純也シェフ。
ここでたくさんの料理人と出会った。
そのほとんどは、現在はシェフとして活躍されている方ばかりだ。
毎回、料理人は何か料理を作って持ち込み、それ以外の方は、飲物を持ち寄る。

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 ある日、その集まりでブルゴーニュのボーヌという街で仕事をしていた料理人仲間がパリに来るが、部屋がないからだれかの家に数日泊めてほしいという話を聞き、僕の部屋に泊めることにした。
彼の名前は松浦隼平。 現在は結婚もして子供もいるパパ。大阪で頑張っている。


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 隼平が部屋に来て、よく2人でパリの街を歩いた。
野生の野ウサギ丸のまま1羽、市場で売られていたのを見て衝動買いして、部屋でさばいて料理したり、青首鴨を買ってきて、部屋に羽毛をまきちらしながら自分達だけの贅沢な晩餐を楽しんだり、やっぱり僕達は料理人なんだな。

野兎調理中

 そのうち、一時帰国していたシュンまで転がりこんできて、6畳一間の僕の部屋にむさくるしい男が3人雑魚寝状態。
なんだかんだで、かなり僕のフランス語の勉強の邪魔をされていた気もするけれど、それはそれ。
気の置けない仲間が出来てとても嬉しかった。

あるとても天気の良い日。
リュクサンブール公園にて

リュクサンブールにて。 このころ日本から観光に来ていたカメラマンの卵がとった一枚。


そんな感じであっという間に2,3週間が経ち、隼平の仕事が決まり、部屋を出ていくことになった。
最後に、お礼にと、隼平が食事を御馳走してくれる。

それが”Le Severo”というお店だった。

その店は14区にあった。大通りから少し入った細い路地の角に、いかにもビストロっていうレストランがある。
扉を開けると左側の壁一面が黒板になっていて、ワインや料理の御品書きが羅列されている。

店内は結構せまくて、25席位がやっと確保できる感じ。
予約していたらしく、僕たちは席へと案内されて、オープンキッチンになっている調理場を見ると、日本人料理人が一人で料理をしていた。
メニューを見ると、肉。 しかも牛肉しかない。牛肉の各部位によって値段が変わる。 
前菜に牛肉のタルタルと、ブーダン、メインにフォーフィレ(背肉の鞍下肉側の肉)をそれぞれ頼んだ。
ほどなくして満席になった。

こちらに連れてきてくれたのは、今料理されている方が、隼平の日本での先輩で、紹介も兼ねてのことだった。

レストラン中に牛肉の焼けた香ばしさが充満する。
タルタルが来た。早速頂こう。

衝撃が走った。
絶句。

むちゃくちゃうまい。何なんだろうこの肉は。味付けは凄くシンプル。肉の味が半端ではない。
ちょっと待て。
僕がいままで食べてきた牛肉とは異質のものだ。

ワインを注がれた。
ワインを飲む。うまい。
やばい。うまい。
にやけてしまう。

隼平のブーダンを一口貰う。
これもうまい! 表面をカリッと焼き切って、リンゴのコンポートが添えてある。 このブーダン、きちんと肉も入っていて、ごろごろと入った脂身とでしっかりとした一品になっている。後から来るスパイスの香りもたまらない。

そして、メインのフォーフィレが来た。要するにサーロインステーキだ。
だが驚くべきは大きさ。 でかい。一皿に500gくらいはあろうか。
分厚い(3センチくらい)肉。
香ばしい焼き色。ナイフを入れると、中から肉汁が溢れだす。
中心がちょうどひと肌くらいになった
ミディアムレア。

急いで口に放り込む。
肉のうまみが凝縮、爆発。
何じゃこりゃーって感じ。ただ焼いただけ。ソースも何もなく、サラダとフライドポテトが添えてある(山盛りに。)
この肉の味に納得がいかない。
うますぎる。
もう笑うしかなく、ワインと共にひたすらその味覚にに浸りこむ。

500g、完食し、まずサービスのおじさんに満面の笑みで、「すばらしく美味しかったです。」

やっとこの素晴らしい料理を作り上げた料理人の手が空いたので、「おいしかったです!」
と伝え、あらためて挨拶をさせていただいた。

その人は茂野眞さん。現在乃木坂の祥瑞 (ションズイ)でシェフをされている。
ここからは、もう何を話したか覚えてない。ひたすらに感動を一生懸命伝えていた。

僕のそんな姿に、茂野さんもとても好意を持ってくれたようで、初めてこちらに来たお客さんでここまで感動してくれた人はカズ君くらいだよと言い、茂野さんもとても喜んで下さった。

茂野さんは、普段はこの近くのレストランに務め、土曜の昼だけ、こちらで料理をしに来ているという。
茂野さんもこちらの肉に惚れきっていて、休憩時間や休日を利用して、先程僕が話したサービスのおじさんに頼んで手伝いに来ているということだった。
そのおじさんがここのオーナー。
彼の名はウイリアム・ベルネー。
若いころ、肉屋で修業し、最高の牛肉を提供するためにこちらをオープンさせた。
以来、国内外の雑誌や新聞に取り上げられ、フランスで一番うまい牛肉を食べられる店として食通や、グラン・シェフ御用達となっている。(もちろん日本の雑誌にも何度も取り上げられている。)


この出会いによって、その後、僕が歩んでゆく人生の方向が定まることになる。

ヘルプ

あっという間に年は明け、2004年1月。
この年、僕は幾つものかけがえのない出会いをすることになる。

1月の某日。
前回のジュンの部屋でのフェット(飲み会や、集まりのこと。お祭り。)で、今回は、料理人25人が、前菜担当、メイン担当という様に、チームを組んで、みんなで評価し合おうということになった。

せっかくなので、茂野さんにも来てもらって、僕らの料理を食べてもらおう。

僕は、シュンと、順平と組んで、前日からシュンの部屋で料理を仕込んでいた。

P1090528_R.jpg

これが僕らの料理。
僕は、野菜とエイのテリーヌを作り、3人で、ウズラのコンフィや、ブーダンの白と黒、付け合わせに人参やカリフラワーのムースなどを作った。

料理人が25人も集まり料理を披露する。
一大イベントみたいになった。

みんなでそれぞれの料理を食べ、あーだこーだと言い合う。
すごく楽しいフェットとなった。

しかし、一番うれしかったのは、茂野さんが一番気に入ったのが僕の作ったエイのテリーヌだった事。
茂野さんは僕が作った事を知らずに一番美味しい料理に選んでくれた。

それから1週間くらいたった頃、茂野さんから一本の電話があった。
それは、茂野さんが務めるレストランに、ヘルプとして10日間働いてほしいとのことだった。
1月29日から、2月4日まで、茂野さんは、日本で料理の講習会(講師)があって、一時帰国しなければならなく、茂野さんの代わりを務めるということだ。

びっくりした。
重野さんの代わりなんて務まるはずがない。
そういって断るけれど、茂野さんは僕しか頼める人がいないという。
この前のエイのテリーヌを食べた時に、ここのレストランのシェフが気に入る味のバランスを僕が持っていると直感したという。

僕は午前中の授業が終わってから、こちらでヘルプをすることになった。


そのレストランは14区にあった。
名は 「ラ・メゾン・クルティーヌ」 ”La Maison Courtine"

ヘルプに行く2日前に、こちらのシェフに挨拶をするべく伺った。
茂野さんと共にレストランへ行くと、レストランの前に駐車してある紺色のバンから、いま森から帰ってきたというような、木こりの様な風貌の大男があらわれた。

茂野さんはその大男に歩み寄る。
”まさか・・・”
近づくとやっぱりでかい。縦にも横にも。
プロレスラーか木こりかってくらい。
やはり、このレストランのシェフだった。
とりあえず挨拶をして、握手を交わす。大きな手だ。
このシェフは、ただでさえ体が大きいのに、すごく堂々としているから、より大きく見える。

このレストランのメニューを書き留めたいと伝えたら、コピーを渡してくれた。

見た目とは違って、結構合理的な考え方をする人という印象。

今回の仕事は10日間の期間限定。
茂野さんの代わりとまではいかないまでも、このレストランに貢献できたといえるくらいの仕事はしなければ。
ルレ・ルイ・トレーズを辞めて、2ヶ月半がすでに経過していた。

久しぶりの仕事。
体は以前のように動くだろうか。料理の感は鈍っていないだろうか。
2ヶ月半の勉強の成果が試される。
不安はいろいろ抱えていたけれど、新たなレストランを経験できることに胸が高鳴った。


賄い料理

2004年1月26日

ラ・メゾン・クルティーヌでのヘルプが始まった。
この日から3日間、茂野さんから引き継ぎをしながら店に慣れ、29日から茂野さんは日本へ一時帰国することになる。
僕が使えないとシェフが判断した時点でヘルプは打ち切り。

さぁ、やろう!
まずはいつも通り余計なことはせずに、何がどこにあって、調理場がどんな流れなのかを把握することを意識しながら、茂野さんの仕事を追う。

調理場は、ダミアンという24歳のフランス人(セサミストリートに出てくるような、口が大きくてパクパクしながらしゃべるやつ)がスーシェフ(2番手)としてメインの料理を任されていて、前菜を茂野さん、ギヨムというコミ(見習い)と、アプランティ(高校生くらいの、料理学校からの研修生)が2人、洗い場にマリ出身の黒人、ムサがいた。

サービスは、メートル・ドテルのティエリー30歳と、コミが2人。

そして、シェフ イヴ・シャルル。

レストラン店内は、結構広くて、70㎡くらいの38席。全体的にオレンジ色な印象の内装。
 
 賄いはみんなでそろって、テーブルについての食事だった。
30分しっかり席について、ゆったりと、みんなで色々と話しながら、まるで家族の様に。
 シェフと、ティエリーと、茂野さんはワインを飲みながらワインのことを話している。
シェフにワインには興味があるかと聞かれ、はいと答えると僕にもワインを注いでくれた。今までの賄いではありえないこの状況にとても驚いたのを憶えている。

 ターブル・ダンベールでも、ルレ・ルイ・トレーズでも、テーブルに付くどころか、調理場で立ったまま食事を胃に放り込んでたっていう感じなのに。
賄い料理だって、本当に残り物のごちゃまぜシチューとか、安い肉のステーキにじゃが芋のフリットだけ、みたいなものだったのに、こちらではシンプルだけれどきちんとした料理が出てくる。

 そして、シェフはその料理の出来で、担当の料理人を評価しているようだった。
「賄いもまともな料理に仕上げられないやつが、営業中に良い料理を作れる道理がない。」
そう言われた。そして、口に合わないものは絶対に食べない。

なんて贅沢な、でも、とても合理的な考え方だと目から鱗だった。

なぜなら、料理人にとって、食べてもらえないのが一番こたえるし、全員が同じものを食べる賄いを正面切って怒られたのなら納得もいく。逆に褒められたなら、なぜ褒められたのかをみんなが理解でき、他の料理人も同じように作ろうと努力する。だからこの店の、料理に対する味のバランスのとり方や、火入れの加減がシェフの味覚に沿ったものへと向かっていく。
サービス担当はそういうシェフの話を間近で聞いているために、このレストランの料理の個性をお客様に伝えやすい。
当然、常に難しい顔して食べているわけでなく、たまに冗談や雑談も交えて、とても自然体。
僕は、一気にこのシェフに惹かれ、興味を持った。


目の前で、茂野さんはシェフと対等にワインの印象や味わいについて話している。
 僕は、ワインに関して全くの素人だった。が、ただ飲むだけではもったいない。自分の味覚の感じ方をシェフに伝えるいい機会だし、僕としてもこのシェフの味覚の感じ方を知りたい。

素人の僕なんかがどこかで聞いたようなことを言っては失礼になる。素直に、感じるままに伝えよう。
出来るだけ自分の言葉で伝えよう。

こうして少しずつ、シェフと話すようになった。


賄い料理…担当!‽

2日目。
ダミアンが珍しく声を掛けてきた。2004年1月27日18時15分。

「カズ、賄いを作ってくれ。ここにモリュ(塩漬けにして干したタラ)がある。適当に食材使っていいから。」

あまりに唐突で驚いた。が、それにもまして焦ったのは今の時間だった。

 賄いは19時にテーブルに付くことになっている。
当然5分前には出来上がっていなければならない。
で、今、時計の針は18時16分を回ろうかってことになっている。

”ちょっとまて、今から僕にやらせるのか?”

・・・しかも賄い。昨日シェフが話した言葉が脳裏に走る。
彼がスーシェフとして、僕の力試しに与えた試練にしてはちょっとたち悪いぞ…。
こいつ、賄いのことを忘れていたな…。

 が、言い合っている暇はない。
頭を切り替える。
とにかく始めなければ。

 モリュで作る代表的な料理”ブランダード”。フランスの伝統料理の一つだ。
当然それを作れということだろう。材料も揃う。急げ。

まずは、じゃが芋だ。
適当にじゃが芋を選び、皮をむき、火が入りやすいように切る。小さくしてしまうと美味しくない。本当は丸のまま火入れたいところなのだが。残り時間を考えて、時間内に料理が仕上がるためにじゃが芋に使うことのできる時間を逆算した大きさにカットして、水から火を入れてゆく。沸騰してから塩を適量加える方が速く煮える。・・・ここから20分後にじゃが芋に火が入るはずだ。
時間は…18時25分。
別鍋に牛乳と水半々、にんにく、タイム、ローリエの葉を加え沸騰させたもののなかへモリュを沈ませる。火力を最弱にし、蓋をして、約60度くらいの温度を保ちながらしっとりと火を入れる。パセリなど数種のハーブを刻む。と、モリュに火が入った。身をほぐす。
基本的に、ブランダードはグラタンの様にオーブンに入れて仕上げる。当然表面は綺麗に焼き色が付き、そこがまたおいしい。サラマンドルという上火焼きの機械をつけ、熱くしておく。
じゃが芋がゆであがる。ほぐしたモリュと合わせ、モリュを火入れたニンニク風味の牛乳少しを加え、じゃが芋を木べラで潰しながら全部を混ぜ合わせる。オリーブオイルで繋ぎながら、木べらでとにかく混ぜる。急いで混ぜる。よし、時間は・・・18時53分。
何とか間に合いそうだ。
仕上げに、味の調整。

” !! ・・・おいおい! なんだこれ!”

しまった。かなりしょっぱい。

取り返しのつかないミスをしてしまっていた。
すぐに理由が分かる。
モリュとは塩漬けにしたタラを干したもの。なので必ず塩抜きをしなければならない。
だいたい丸一日かけて流水で塩抜きする。
が、その塩抜きの時間が足りていなかったのだ。
かと言って、18時15分にそれに気づいても塩抜きが間に合うはずがない。
”やられた。”
そう思ったが後の祭り。
一番最初に塩の抜け具合を確認しなかった僕の落ち度でもある。

一気にここまで頭の中で考えたところで、時間は・・・やっぱり18時53分。頭を切り替える。

いま重要なのは対策。
どうすれば・・・。

オリーブオイルを少し多めにする。
そして、バニュルス・ビネガー(南仏のバニュルスで作られる、少し甘みのあるやわらかい酢)を加えた。少し胡椒を効かせる。
・・・ま、これくらいの味ならしょっぱすぎるとは感じない・・・かも。

何とか食べられるくらいにはなった。が、もともとのブランダードという料理では酸味は付けない。
酸味は付け合わせのサラダで補うのが普通だ。それとブランダードの相性がとてもいいから。

 伝統料理をすごく大切にしていると思われるシェフに対して、こんな勝手なアレンジをしてしまった”伝統料理もどき”なんて出したら怒られるだろうな~。などと思いながら、しかし時間がないので先に進むしかない。
刻んだハーブを加え、楕円の陶器に、にんにくをこすりつけてから移す。サラマンドルヘ。
時間は・・・18時55分。
5分前に仕上げることはできなかった。
仕方ない、ギリギリまで焼き色をつけよう。
パンをスライスしてオーブンで焼く。
サラダを用意し、テーブルへ持っていくと、みんなが待っている。
19時きっかり。
これ以上の遅れは許されない。
覚悟を決めて、みんなの前へ。
それぞれが待ってましたと自分の皿へと取り分ける。

僕は、もう、まな板の鯉状態だ。

みんなと同じように自分の皿へ取り、サラダとパンと共に食べる。
サラダのドレッシングを大分やわらかい味わいにしたので、そこまで悪くはないと思うけれど…。

するとシェフが話し始めた。


「ダミアン、お前、モリュの塩抜きをきちんとしていなかったな?」



この一言を言って、そのまま食べ続けてくれた。

だいぶ後で聞いた話ですが、その日の夜の賄いは僕に作らせる予定になっていたらしい。(当然もっと早くに伝えられる予定で)
これが、ここの入社試験みたいなものみたい。

シェフは全てを理解していた。
そして、酸味を補って塩分の調整をした僕の悪あがきを、あの状況で取れる方法の一つとしては悪くない発想だった、皿の上の味のバランスもなかなかだと言っていたそうだ。


ちょっと心臓に悪い試練だったけれど、終わりよければ何とやらで、ま、いっか。

レンズ豆

3日目。

僕が語学学校を終えて出勤すると、裏口で茂野さんがシェフと話していた。
茂野さんの一時帰国は、料理のデモンストレーションをするためらしい。
京野菜を使っての和仏食べ比べ。
和食の有名な方は和食技術を使っての京野菜の活かし方、茂野さんはフレンチの技術を使っての京野菜の活かし方で、1つのコースを作り上げるらしい。
雑誌の記者の方々や、著名な方もその試食をされるらしくて、やっぱり茂野さんは只者ではない。

その場に持っていく食材として、シェフがランティーユ(レンズ豆)と、プティ・ポワ(グリンピース)を渡していた。

そのランティーユとは、正式にはランティーユ・ブロン・ド・ラ・プラネイズ"Lantille blond de la planaise"という、舌をかみそうな名前のもの。

日本で、フランス産の有名なレンズ豆が、”ランティーユ・デュ・ピュイ”として出回っていますが、その産地ピュイの中でも、プラネイズという村でしか作られていない昔の品種のレンズ豆。
少し黄色がかった茶色で,豆の粒が小さく、旨味が凝縮され、植物性のほのかな甘みのある良質な油脂を感じさせる味わいが特徴。

 この辺りでは、遠くはるか昔に大きな火山の噴火がおこり、そのマグマがこの土地をレンズ豆にとって理想的な大地へと変え、長い間作られてきたレンズ豆の古品種だが、やはり時代の流れで、中世以降、レンズ豆は貧しいものが食すものというようなイメージが出来てしまい、時代と共に消えかけていた古品種を、近年のアグリキュルチュール・ビオロジックの動きにより見直され、焦点が当てられ始めたまだとても希少な古品種のレンズ豆。


 アグリキュルチュール・ビオロジック(アグリキュルチュール・ビオロジック(Agriculture Biologique )はABマークと呼ばれフランス政府厳しい認定基準が定められています。化学肥料や化学薬品の禁止をはじめ、遺伝子組み換え作物による肥料の使用も禁止。
またハーブ栽培の場合は最低3年間の有機農法を続けることが決められており、さらに一年ごとに抜き打ちでの検査もおこなわれます。
飼育過程や環境、飼料などでも厳しい基準が定められており、食品によっては有機農産物への変更する準備期間まで決められているため、すぐに認定を受けることはできません。
1981年に制定され、1985年からオーガニックの認定マークとしてロゴが使用されるようになりました。
 (認証マーク辞典 - オーガニックとロハスのショッピングモール「アルカモール」より)


もう一つのプティ・ポワも同じ土地で,同じ生産者が作り、名前も、プティ・ポワ・ブロン・ド・ラ・プラネイズ”Petit pois blond de la planaise"という。

この二つは、ラ・メゾン・クルティーヌ初日に茂野さんに味見させていただいて、僕のレンズ豆とグリンピースに対する意識をひっくり返されたほど美味しいものだ。
正直、僕はレンズ豆を美味しいと思ったことはなかったので、このような食材を知るたびに、それを扱う”ラ・メゾン・クルティーヌ”に惚れ込んでいくことになる。



とにかく、こんな食材がこのレストランにはごろごろある。
それはこれからおいおい出てきますが、それにしても、こんな食材をシェフは惜しげもなく茂野さんに持たせるあたりやっぱり並みの人ではないなと思ったのでした。

茂野さんが一時帰国するにあたり、僕に託されるこのレストランの前菜場。
その料理はとてもシンプルなものばかりでした。
サーモンマリネ。 とか、フォアグラのテリーヌ(いたってシンプルに塩コショウだけでの味付け)とか、仔牛の頭の肉をロール状にして煮込み、冷やし、スライスした、見た目はスライスしたハムが並んでるだけのお皿とか、豚足を煮込んで冷やして焼いた、一つの塊が皿の上に乗っかって、サラダが添えてあるだけのものとか。

とにかく、ビストロの様に飾り気なんて全くない。
しかし、このレストランは1つ星。
こんなにぶっきらぼうな皿を提供する星付きレストランに初めて出会った。
ミシュランの英断に賛辞を送りたい。

茂野さんはそれらを少しずつ味見させてくれた。
こんなにシンプルなのに、むちゃくちゃ美味しい。 (茂野マジック?) 

それ以外の料理に関しても,味見するたびに僕が感動するので、
「こういう食材だから、だれが作っても美味しくなるんだよ。」
と、茂野さんは誇るではなく,生産者をたてる。
見せてくれる食材は、吟味された生産者から届くものばかりで、すでにとても美しく、それでいて力強く、生命力あふれるものだった。

しかし、料理工程や、火入れ、塩加減など、茂野さんの”塩梅”が素晴らしい事は明白で、明日から茂野さんの代わりに僕が調理して、おいしくなくなるわけには、尚さらいかなくなった。

シンプルな料理ばかりで、覚えるのに苦労はしなかった。

けれど、

シンプルな料理だから、少しでも気を抜いたらそれが皿の上に現れる。 

ごまかしが効かない。
ごまかしは出来ない。





コミやアプランティーのキャラクター


ラ・メゾン・クルティーヌの調理場で働くスタッフのキャラクター&エピソードを紹介。

まずは、若い黒人(18歳くらい?)のコミ(まだ肩書きのない料理人)から。
ある日の賄いの時に、何かの話の流れで、”今自分に掲げている目標” なんて学校の様な話になった。
普段、真面目で真剣に料理してるから、有名な料理人になるつもりとでもいうかと思ったら、「ダンスコンクールで前回はおしくも2位だったから、次は一位を狙うのが今の目標。そのために今は一生懸命練習してる」って。しかも将来の夢はダンサーって、シェフのいる前で言い切った。
僕は、びっくりしてシェフを見るが、シェフは眉一つ動かさず普通に聞いている。応援しているようにも見える。
仕事をきちんとやれば、そういうことにはこだわらない。 やはり合理的な考えからくるのだろうか。
”日本でこんなこと言ったらクビだな~。アルバイトならともかく”
なんて考えていると、そいつが踊りだした。
確かにうまい。僕もなぜかステップのとり方とか教えられ始めちゃって、少し困った。
彼の中では料理は2の次。お金を稼ぐために仕事と割り切っている。
僕には少し不思議な感覚だった。


別の若い料理人。そいつはアプランティのフランス人。
彼は、営業中にいつもポケットに片腕を突っ込みながら見ている。
態度悪いな〜こいつ。と思って見ていたけれど、そのわりに人懐っこい奴で、目が合うと笑いかけてくる。
不思議な奴だなぁと言う印象に変わり始めた頃、ある事実が発覚する。

なんとそのポケットに突っ込んだ手で、メールを打っていた。 ポケットの中で。

ある時、メール中にシェフに腕を掴まれての現行犯。
気付いたシェフを凄いと思った。
それに懲りずに、又ポケットに手を突っ込んでいるので、その日2度目ということもあり、シェフが手を振り上げて威嚇する。と、彼は殴られまいとそこから裏口へ逃げ、こうなるとシェフも追いかけざるを得ないし、彼は中庭へ逃げるし、シェフはなおも追いかけていて、なんか、親子喧嘩みたいになってきた。若い彼は足が速くてなかなかつかまらない。
とうとうシェフが諦めて調理場に帰ってきた。
シェフの顔は、怒っているというより呆れてて、途中からコントみたいになっちゃったことに笑いがこぼれてしまっていた。

後から聞くと、さすがにこんなアプランティ(料理学校からの研修生)は、シェフとして学校側に研修を突っぱねることもできたらしいが、この若いアプランティ、パリの有名な肉屋のオーナーシェフ、ユーゴ・デノワイエの親戚の息子で、ユーゴから、シェフが直々に頼まれた厄介者だったよう。
ちなみにこの彼、現在はIT関係の仕事について、この特技をいかんなく発揮しているらしいのですが(天職)。


他にも、丸鳥の下処理は大得意なのでぜひやらせて下さいというコミ。
胸肉が必要だからさばけって言ったら、きちんと胸肉をさばいて持ってくるから感心していたら、骨どころか他のモモ肉や手羽まで捨てていたなんていうこともあった。
あー、日本で見習いに米を研げって言ったら洗剤で洗ったってやつのようなものだな~と。

こういうたぐいのはどの国にもいるものですね。



きっかけ。

そんなこんなでとうとう2月4日ヘルプ最終日。

僕は可も無く不可も無く。
別に怒られもせず、かと言って褒められもせず。
気づけば終わっていたという感じ。

で、給料を受け取り、そのまま包丁と荷物をまとめ、ホントに普通に帰宅。
シェフから何か言われるかなーとかちょっと期待していたけれどなにもなし。
みんなにはまた遊びに来いよーとか言われたけれど、ちょっと社交辞令みたいな?


ん~。これが現実かな。


と、いうことで、また語学の勉強生に戻った。



その1週間後にまた一本の電話が。
茂野さんだ。
2月14日のバレンタインデーに、またスポットで手伝いに来てくれないかという話だった。
もちろんOK。
前回お金はきちんと払ってくれた。そう、10日間で、ルレ・ルイ・トレーズでの一ヶ月分の給料。

それに、茂野さんと働くことで僕が得られることもたくさんあった。


2月14日

フランス人は、もちろんキリスト教徒が多い。なので、バレンタインデーは老若男女問わず大きなイベントだ。恋に積極的な民族ということも後押しして、毎年、バレンタインデー特別メニューの予約で席が埋まる。もちろん全てがカップル。

バレンタインメニューもクリスマスメニュー並みのクオリティと品数そして値段、ということで、ここぞとばかりにシェフが茂野さんに僕を呼べないかと相談されたらしい。


その2004年2月14日
営業が終わってから僕はシェフに口説かれる。

「カズ、ここで少しの間、働いてみないか?」
と。
もちろん僕がビザを持たないことをシェフは知っている。そして、シェフは過去に不法労働を許したことはない。

それから5年。
メートル・ドテル(支配人)のティエリーいわく
”あれは一大事件だった、いまだに信じられない”
”あの、イブ・シャルルが一人の日本人の為にあんなに危ない橋(警察にばれたら閉店)を渡るなんて。”
イブ・シャルルいわく”あれは大きな決断だったと同時に英断でもあった。”



僕に断る理由などない。
こうして僕はこれから5年弱ものあいだ、このイブ・シャルルと共に”ラ・メゾン・クルティーヌ”で過ごす。
僕の半生の中で最も重要だったと言える時間を。

ラ・メゾン・クルティーヌ

"Restaurant la Maison Courtine" (レストラン ラ・メゾン・クルティーヌ)


Yves Sharle(イブ・シャルル)は、1986年にパリ郊外に23歳の若さでメゾン・クルティーヌをオープンさせます。
ですが、イヴはレストラン名だけ、オープンギリギリまで悩んでいました。
そして、オープン前日、彼のお母さんが大好きだった『三人の料理人』という題の絵画を大きく引き伸ばしお店の中央に飾ることで、その絵画を描いた人、クルティーヌの名前を店名に用いたのです。


 ラ・メゾン・クルティーヌのこの『三人の料理人』には、ある物語がありました。


イヴのお母さんがまだ小さい頃、彼女のお父さん(イヴのおじいさん)は絵画を収集することの大好きな方でした。
もちろん幼き日の彼女には絵画の良さなど分かるはずもないのですが、絵画を見つめる父の姿はとても美しく思い出せるのだそうです。

そんな幼い頃のある日、彼女の家に一枚の絵画が届きます。
またいつもの様に難解なものだろうと思いながら絵画を見た幼い彼女。しかし一目で心惹かれてしまうのでした。
自分でもどこに魅かれるのかは分からない、でも、この『三人の料理人』という絵画だけは見ている時間がとても好きな女の子になりました。 

彼女のお父さんは、イブが生まれるのを待たずして亡くなり、いくつかの絵画はその頃に処分されたようです。
しかし、この絵画だけは残したくて、彼女は大切に何処かへしまったのでした。

大切にしまったものは、それが思い入れのあるものであればあるほど、時として見つからなくなるもの。
彼女はやがて、しまった場所を忘れてしまい,その後幾度か探したことはありましたが見つからず、そのうち思いも風化し、忘れられていくのでした。

しかし、ラ・メゾン・クルティーヌをオープンするという頃に、偶然倉庫で発見します。

古い倉庫でこの絵画を見つけ、幼き日が甦り感動している母の姿。
その手にあるおじいさんの形見と共にあふれ語られるイブの知らないおじいさんの人柄。
この時に、その絵画がイヴにとっても、特別な存在になったであろう事は容易に想像できます。

母の喜ぶ姿と、イブの見たことのないおじいさんの姿をその絵画に重ね、その思い入れある絵画をお店の中央に飾りたい、店の名前にしよう、とイヴが決意したのは、彼の人生の必然であるようにさえ僕には感じられました。





1986年のオープン当初は、イヴが料理を作り、彼のお母さんがサービスを担当するという小さなレストランだったそうです。

この頃のスぺシャリテに”馬肉のジビエ仕立て” ”オマール海老とキノコのモンゴルフィア”などがあります。 

徐々に口コミでお客様が増え、こちらの店では手狭になってきたのと、郊外ではなく、やはりパリの中で勝負してみたいという想いとで、1998年2月、パリの14区に移転。
パリの南に位置し、モンパルナスからアレジアへと抜ける国道に面してある小さな公園のあたりへ。
パリでもシャンゼリゼなどの喧騒から離れた、比較的落ち着きのある地域だ。

1998年のフランスはバブル景気。
フランスのここ、14区の小さな公園の傍にあるラ・メゾン・クルティーヌもその波に乗り、オープン初日から昼も夜も満席となります。

扉の前では長蛇の列が出来たと、当時を振り返るイヴ・シャルルの、その対応がいかにもフランス人らしくて面白い。

ただ待たせるのも申し訳ないと思い、カクテルとアミューズ・ブ―シュをふるまっていたそうで、店の前の国道沿いに違法駐車している車(自分の車を含む)のボンネットの上が、空いたグラスやお皿用のテーブルがわりになっていたとか。

とにかく、お客さんが溢れて仕方なくて、従業員を新たに確保するのに必死だったそうです。
とくにサービスマンの確保が難しく、この頃からお客様から頂くチップはサービススタッフだけで分けるようになったとか。(サービスのモチベーションコントロールには素晴らしい威力ですが、おかげで僕はチップの恩恵には数えるほどしかあずからなかった。)

そして、この頃に我らがメートル・ド・テル ”ティエリー・エロ” が加わった。(この当時の彼はムチャクチャかっこいい、ダンスをたしなむ紳士的な男性。が、今は太ってしまって、とても温かみのあるやさしい男性。)

この頃の目の回るような忙しさの中で考案されたスぺシャリテの代表が ”小烏賊のスープ ヴォンデ郷土料理法にて” ”手長海老のラビオリと、その濃縮ソースの泡”



だが、1999年には、あまりの忙しさと給料との折り合いがつかず少しの間ティエリーが店を抜け、それでも何とかなると意地を張っていたイヴが観念して、破格の待遇でティエリーを呼び戻す。
ラ・メゾン・クルティーヌ復活と同時に最盛期を迎え、2002年にミシュランでひとつ星を獲得。
その決定を知らされた日の夜は、あまりの嬉しさに全ての料理を店からのサービスにし、朝までお客様と従業員とがいっしょになって酒盛りしたとか。(僕もその場に居たっかった・・・)

2002年からミシュラン1つ星として掲載されたラ・メゾン・クルティーヌのスぺシャリテに  ”豚足のクルスティアン””フォアグラのポワレ マスカットソース” ”仔牛の頭肉の煮こごりカルパッチョ” ”鴨のマグレ ゲランド産大粒な塩の花焼き” ”チョコレートのスフレ”  などがある。



近年になり、料理に科学的な要素や美しさを求める流れが出来てきて、お客様は食材に対する思い入れや美味しさよりも、驚きや食べたことのない料理を求める傾向が強くなり、お客様との温度差を感じはじめたイヴは、店内、調理場、その他全てを大改装して、皿、ナイフ、シルバーなどをオーダーメイド。

この頃の楽しそうな、浮かれきったイヴはとてもいきいきしているように見えた。

レストランを開いた1986年に掲げたミシュランで星をとるという目標を達成し、レストランの内装と調理場、機材、カトラリーを自分のイメージする最高のレストランに仕上げ、「やりきった、思い残すことはない」と、あっさり2008年9月に店を売りに出し、新しいオーナーに委ねる。

現在イヴはテーブルナイフ(ラギヨールなどが示すとおり、フランスの誇る伝統文化の一つでもある)などを製造し、フランス国内外に、新しいスタイルを提案、販売し、大きな成果と評価を得ている。

2007年1月、僕はイヴからラ・メゾン・クルティーヌのシェフを任される。(イヴはテーブルナイフの会社ペルソヴァル http://www.couteau.com/ を立ち上げ、そちらに心血を注ぐ)イヴがシェフの座を委ねたのは僕が初めて。2008年11月までこのレストランを守り、1つ星を維持。

思い返せば約5年もの時間を、このレストランで過ごしていました。 



イヴとは、料理の価値観、方向性がぴったりと合い、お互いに刺激を受けながら、最高の時間を共にすごしました。
もちろん 仕事だけにとどまらず、家族ぐるみで、休日にも多くの時間を。

毎年8月にヴァカンスで1ヶ月間店を閉めて過ごすフランス西側海岸の小さな村にある林に囲まれた彼の別荘での夜。シーンと静まり返り、波の音が静かに響くテラスに僕とイヴの二人きり。
フランスのトランプゲーム”ブロット・ド・コントワ―ル”をやりながら、知恵を試しあい、葉巻を吸い、ワインを飲みながら、ラ・メゾン・クルティーヌのことはもちろん、フランスと日本の価値観や哲学の相違、互いの将来のことなどを語り合った。

とにかく、思い出は語りつくせないほど。
僕の惚れ込んだイヴの料理を、意志を、想いを途切れさせたくない。
僕のそう遠くない未来のレストランの名はメゾンクルティーヌとなります。
僕が日本でラ・メゾン・クルティーヌの名前を継承し、次の世代へと繋ぎます。

当然、本店の証である『三人の料理人』は海を渡り、日本に来ます。これからもメゾン・クルティーヌを見守り、未来へと導くために。


メゾン・クルティーヌの復活

フランスの7年半とは少し道がそれますが、今回は僕の今を報告です。

タイトルにも書きましたが、やっと、やっと、長年の思いが形になります。
とても長い準備期間になりました。
予定通り進めば9月19



にオープンできる予定です。
下記は、メゾン・クルティーヌの簡単な紹介チラシ!



メゾン・クルティーヌ

Restaurant                     
la Maison Courtine

パリと南仏、2店舗の料理を阿佐ヶ谷で召し上がれ

<料理>
シェフ  善塔一幸

パリの“ラ・メゾン・クルティーヌ”(1つ星)と 南仏の“レ・パピーユ・アンソリット” 両レストランでシェフとして活躍。

南仏、“レ・パピーユ・アンソリット”では、2010年フランス最高のワインビストロに選ばれ、その料理はビストロ・ガストロ(美食家の為のビストロ)と評された


<サービス>  
支配人  掛橋将旗。

コート・デュローヌ地方、バランスの“ラ・カシェット”において、支配人兼シェフソムリエとして活躍

2009年3月3日にオーナーシェフ伊地知雅さんと共に一つ星獲得を成し遂げた。

<ワイン>
ジャンパスカル・ロヴォルが選ぶ、超自然派ワイン

卓越したセンスにより、過去最年少(23歳)で、3ツ星レストランのシェフソムリエ(ソムリエ長)に就任した

22歳 “トロワグロ”主催ソムリエコンクール優勝
コンクール嫌いな彼が、Mrトロワグロの命令で唯一出場したコンクール

23歳にしてフランスの三ツ星レストラン“ミッシェル・ゲラール”で、シェフソムリエに抜擢され、熟練ソムリエ8人を従えて7年間活躍

現在38歳 レ・パピーユ・アンソリット オーナーソムリエ


<BGM> 1500曲のフランスミュージック

“メゾン・クルティーヌ”の歴代フランス人スタッフ と ジャンパスカル夫妻が好んで聞いていた思い出の曲

<クレジットカード>
ただいま申請中ですので、オープン当初は使えません。
ご理解のほどよろしくお願いします。




<メゾン・クルティーヌ>

1986年5月19日 イブ・シャルルによって、パリ郊外 ウイユに開店 

1991年5月1日    パリ
14区へ移転、オープン

2001年3月3日    ミシュラン1つ星獲得

2008年1月1日    イブ・シャルルより継承

2011年9月19日 日本で復活オープン!



 場所  杉並区阿佐ヶ谷南3−37−10 Ysディセンダンツビル1F


より大きな地図で La Maison Courtine (メゾン・クルティーヌ) を表示

BGM作成中。

ただいま、店内BGMを作成中。
フランスで買いためたCDをパソコンに入れています。
ふらんすの友人にもらった曲とかも会わせると2000曲を超えそう。

一曲ずつに思い出があるからとても楽しい作業です。

お店では常に思い出のフランスミュージック(中には英語の曲もあるけれど、フランスで初めて聞いた、よく流れていたという意味でOKということで。)を流しながら料理することで、少しでも自分の感覚をフランスにいる頃の感覚に持っていければいいなーと思ってます。

僕は、感受性豊かでしかも不器用なので、どうしても周囲の環境や雰囲気の影響が(もちろん自分自身の感情や思いも)お皿に映し出される。
やっぱり、感性のベースはフランスじゃないとフランス料理を作れない気がして。



本当の贅沢。 カーエムにて。

久しぶりに、尊敬する大先輩のレストランへ食事に伺い、とっても感動してしまったので、書かせてください
(フランス話は少し休憩 笑)

まず、こんな贅沢な料理を、ほかに知りません。

確かに、お金をたくさんかけた贅沢ならほかに山ほどあります。
確かに、時間をたくさんかけた贅沢ならほかに山ほどあります。
確かに、希少価値を追求する贅沢ならほかに山ほどあります。
確かに、奇想天外な驚きや、美しさを追求した贅沢ならほかに山ほどあります。
確かに、地産地消、自家栽培、鮮度、こだわり抜いた贅沢ならほかに山ほどあります
たしかに・・・

ですが、今日、それらを超える贅沢を、教えていただきました。
ただ、私にとって(かなり料理人としての感覚と価値観が影響しています。)の贅沢ということもいえますが。

宮代シェフ 佳子さん ありがとうございました。

カウンターで食事しました。
私は、一人で伺いました。
カウンターの隣の席には40代くらいでしょうか、男性と女性が、女の子を挟んで座り、食事を楽しんでいました。ご家族のようです。
カウンターを挟んで、女の子がシェフと軽いジョークを交えながら、本当に楽しそう。
私はただ、一人でゆっくり食事を楽しんでいました。
見せていただきながら、魅せていただきながら、料理を頂きました。

宮代シェフは、とてもゆったりと、とても丁寧に、ストレスなく、流れるように料理をされる。
端から見ると、本当に簡単に料理が仕上げられてゆく。

ああ、お寿司ともつながる。
よけいな動き、よけいな行程を省いた先の素直な料理。極めた先にある、美しさ。視覚ではなく、第六感で感じる美しさ。
“潔い”という言葉の持つ深い意味がもたらす、口に入れたときの滋味の複雑さと、快感、そして静かな感動。
心にしみこむ。

一人で料理されているので、宮代シェフが私のために最初から最後まで料理してくれる(既に感動)。

一羽の鳩を私のためだけにつきっきりで料理している。
お客さんに笑顔を魅せながら、居心地の良い雰囲気を演出しながら、色付けられ、香りを振りまき、身が引き締まり、ぷりっと弾けるような肌の張りをみせながら、ストレスなくしっとりと仕上げられた”記憶に残る思春期の少女の唇のような色”を持つその柔らかい身。
酸味のある季節感漂う付け合わせの野菜とすてきなソースとア・ラ・ミニッツだけがもたらすコリアンダーの香りで一層 罪深い味わいへと昇華させる。

この鳩料理は、宮代シェフがこの夏のためにつくり上げた一皿。(なので詳しい描写は割愛)
ひとづて(人伝)に聞いた、この料理にたどり着いたときの嬉しそうなシェフは、まるで子供が新たな世界の存在を知った時の目の輝きを想わせる。
夜空の星の輝きに幾億光年のときの流れを重ねるような、身近にある真実の深さへの思いを感じさせる。

一皿一皿が全てこの調子。

安心しながら、期待し、落ち着いて、感動をいただく。
クラッシックに裏打ちされた、複雑な技術や行程の一つ一つの意味を全身で理解して至った場所 に、宮代シェフらしさをプラスしている。
それは、美しく、ほかにない香りをもたらす。美しく、ほかにない味わいをもたらす。 自然に。 あたかもその料理は初めからそうであったかのような一体感と味のバランス、旨味と余韻。

ピンッと主張した意外性を、揺るぎない技術がもたらすふくよかな滋味で包容する。

料理を追求し続けてきた宮代シェフが、流行や景気の波に流されそうになりながらもこらえ、信念を貫き磨き続けた洗練の極み。

オンリーワン。宮代シェフにしか作れない味わい。空間。

あ、料理のことを語りすぎました。
さりげない、素晴らしいサービスをしてくださった佳子さんごめんなさい。
本当に、ありがとうございました。

ごちそうさまでした。

ジャンパスカル・ロヴォルとの出会い

さて、また時をさかのぼり、2004年2月下旬。

そう、ヴァレンタインデーにシェフに口説かれ、晴れてこちらの店で働けることになった頃。

僕はデザート担当を拝領。

ここで少し、ラ・メゾン・クルティーヌの時間割を説明します。
朝は8時30分から9時の間に出勤し、11時30からまかない。12時から14時まで昼営業をし、掃除をして、15時から18時まで中抜き休憩。
18時に出勤し、19時から賄い。 19時30分から夜営業スタート、23時ラストオーダー。掃除し、24時頃に帰る。

と、とても従業員に良心的なお店。
特筆すべきは15時から18時まで休憩という人生で初体験な魅力。
今思うとこの時間にたくさんの出会いがありました。

そういえば、あの日のあの出会いもこの休憩時間…。

ラ・メゾン・クルティーヌの一員となったことで、茂野さん(現 六本木 SHONZUIシェフ)との距離も一気に縮まり、ワインを飲みながら語り合うことも増えて来た頃。
最高の自然派ワインばかりを扱っているワイン屋があるからと誘われて、ランチ営業後のラ・メゾン・クルティーヌから歩いて5分。カーヴ デ パピーユ(Cave des Papilles) という店についた。
店に入るなり、店員さんやお客さんとビズ(フランスの親密なもの同士の挨拶)をしている。
茂野さんは、こちらのお店を日本にいた頃から知っていて、ことあるごとにワインを買いに訪れているようだ。

そんなこんなしてる間に,こちらのオーナーがおもむろにワインを開けた。
ここはワインバーじゃなく、正真正銘のワイン屋さん。 が、仕事中にも関わらずワインを開ける。と、茂野さんは僕をオーナーに紹介し、皆で飲み始めた。もちろん他のお客も一緒に。
なんて適当なのだろう。
みんな当たり前のように話しながら飲んでいる。
 
なんておいしいワインだろう。

こんなワインを惜しげもなく振る舞う。
僕は一気にこのワイン屋さんの魅力に引き込まれていった。

興味を持った僕が、気づかないうちに茂野さんへ質問攻めをしていると、茂野さんも面倒になったのか、僕にひょろっとした背の高い男を紹介する。
“シェフ ド カーヴィニスト”と呼ぶ、この店のワインの仕入と状態管理を任されている人だ。

で、好きに聞けと。 
ワインの専門用語もろくに知らない僕を放置。

ま、茂野さんやイブ・シャルルとは多少ワインについて話せるようにもなってきていたし、実はちょっとは知ってるんです みたいなノリで話し始めたら・・・
 
 後悔。

 ボロ雑巾のように叩きのめされた感じ。
 
 ちょっと雲の上を見たような、知識と経験とセンスの”大差”を感じてしまって逃げたくすらなった。
 それぐらい真剣に、僕が軽い気持ちで言った言葉や知識や感想を訂正してくる。
 ほぼすべてを一刀のもとにぶった切り(泣)。
 容赦なし。
 切り捨て御免。
 オブラートに包むなんて言葉を彼は知らない。

2009年に2人で立ち上げたパピーユ・アンソリットの オーナーソムリエ ジャンパスカル・ロヴォル 彼だ。
 ぶっきらぼう、堅物、しかし今まで会ったどの人よりも“本物”という言葉が似合う男でした。

 余談ですが、後日 仲良くなってから、当時の話をいやらしく持ち出したら、茂野さんが紹介した奴ということで、なあなあじゃなく本気で接しようという優しさから来た対応だったのだと、冗談とも本気ともとれる表情で言われて、こいつには敵わないなーと思ったのでした(笑)

さて、そんなこんなで3時間なんてあっという間。
当然18時からは仕事がまっている。 
そこからまた気を引き締めて、料理をし、お客様のテーブルへ。

よくこうして休憩時間に試飲に行ったのだけれど、結構大丈夫でした。時にはいつもより動きが良いなんて褒められたりもして。

若い頃にお酒の飲み方、酔った時の気の張り方を教えてくれた、母里さんや伊藤さんのおかげで、充実した時間を得られました。
あらためて、お礼を言わせてください。

ありがとうございました。

そんな 無茶な。


 晴れて仕事も決まったので、引っ越しをすることに。

 相変わらず労働ビザがないので(僕の給料はシェフの手取りから支払われる。)給料は少し上がったけれど月800ユーロ。当時で10万円くらい。

 シェフは僕が労働ビザを持っていないことをとても悩んでいた。
ほぼ毎日のようにどうしようかと問いかけてくる。
その度に僕は労働ビザを申請してくださいと言うも、

『それだと申請中は働けない。』
『申請が通っても、その後日本に10ヶ月帰らなければならない。』
『時間がかかりすぎる。申請するだけでも大変なのにそれで駄目だったら最悪だー。』

どうしようー。とまるで子供みたい。

あげくには 
『誰か友達でビザ持っている人はいないのか? 写真と労働ビザをコピーさせてもらってその人のフリをしていれば、フランス人なんてアジア人の顔の区別なんて付かないんだから大丈夫だよ。うん、それがいい。』

・ ・・そんな 無茶な。

冷たい視線を返したら、シェフルームにすごすごと戻っていった。


 さて引っ越し件だけれど、当時は別に引っ越しなどまったく考えてはいなかった。(敷金礼金やらの出費など考えたくもないし、手続きが全部フランス語。正式な書類を集めるのにすら苦労する。) 
しかし、パリで出会った友人の一人が、1200ユーロの2LDKに2人で住んでいて、その相方が急遽日本へ帰国しなければならなくなり、1人で1200ユーロも払えないから一緒に住んでくれないかと持ちかけられての引っ越し。
現在の家賃600ユーロと同じ額で出費自体は変わらないし、まーいっかと軽い気持ち。

一応部屋も見に来てよということで、訪れた。 
行ってみると結構広い。
フランス映画“ヤマカシ”(リュック・ベッソン監督)に出てくるような、いかにもフランスのアパートですって言う感じ。
白い壁。 
壁面の所々に彫刻があり、中央には大理石でできた大きな暖炉。
天井も高く、部屋もひとつひとつが大きい。
リビングにはソファーとローテーブルがあり、キッチンは広く、清潔感のあるタイルばり。オーブンまで付いている(料理人心がくすぐられる)
お風呂はバスタブ付き。 
うーん悪くない。(惹かれてる)

 いろんな手続きが面倒なので(今考えると結構危険な世間知らずの僕。詐欺の可能性だってゼロじゃなかった訳だし。)居候みたいな扱いで、僕は半額の600ユーロを友達に払って生活してゆくのだけれど、大家さんとも会っときましょうということになって、大家さんが来ることになった。
こんな豪邸を貸している大家ってどんな人なのだろう…。

待つこと一時間、大家さんが来た。驚いたことに日本人。
でも格好がなんというか・・・普通と違った。

40代前半のパーマをかけているような長髪の、なんか芸術家みたいな印象の人。
ジャケットを着て、丸渕眼鏡をしている。
第一印象は正直、怪しいおじさん。 それに加えて、その人の話がこれまた眉唾物。

大家さんとの面接。 当然僕の職業の話にもなる訳で、料理人として現在一ツ星のレストランで働いてますと話すことになる。
すると、私はジャーナリストですときた。

は???

『いや、実は私、昔“ゴー・エ・ミヨー”で調査員をしていて、ゴー編集長に目をかけられていたのでよくいっしょに食事(調査)しました。』
おいおい・・日本人の調査員なんぞ聞いたこともない。

『多くの三ツ星シェフと懇意にしてもらってる。』
僕にそれを確認するすべはありません。

『仕事柄シャトーへはよく行く。伯爵にも仲の良い人がたくさんいる。』
しゃとー? は、伯爵!?

『某有名ワインのオーナーとも友人で、この間私の撮った写真を上げたら、1989年のグランクリュを1本くれたよ』
15年前のグランクリュに見合う写真ってありえないだろ。

『日本で1、2を争ってるソムリエの田崎さんや城島さんのこともよく知っている。』
あー雑誌などでね。。。

『僕は音楽のプロデューサーをやっていた時期があって、CDをつくって・・・』
おーい脈絡がないぞー。

・・・そんな 無茶苦茶な。

 設定に無理がありすぎる。
さすがに世間知らずで騙されやすい僕でも、怪しんでかかるレベル。

 だが、直接僕に実害はないので、聞き流すことにしてその場はやり過ごした。
相棒に意見を求めるが、その人にとっても、どうでもよいことのようだ。
 僕としては、ゴー・エ・ミヨーや、三ツ星シェフが出て来た時点で、少し腹立たしくはあった。

 後日、僕は晴れてこちらに住めるという合意を頂いたのだが、この怪しいおっさんにも気に入られてしまったようだ。

『今度、晩餐に招待してくれないか?もちろん君の料理で。ワインは私が用意するから。』


・・・ ややこしい人に摑まったのかもしれない。。。

                     
               



理解の外  2004年 2月29日(日)

さて困った。
大家さんに対して”むげ”にすることもできない。

『ワイン持っていくからメニュー教えて。』
そんなことを言われ、“どうせその辺のスーパーとかで買うんでしょ・・・” なんて考えながら、前菜にラタテュイユ、メインに丸鶏のローストを作ることを伝えて、大家さんを招いた。

晩餐の日。
前回とは違う紳士的な服装で、ワインを持って現れた。
『うん、良い香りですね。』
そうひと言いうと、部屋に充満する料理の香りをつまみに、持って来たシャンパンを開けた。
続けて赤ワインも開け、部屋の隅に置いて、

乾杯。


!?

・・・・・・っ・・・!!!


・・・そうか。。。

こういう可能性も少しは考えたけどね・・・。


今でも鮮烈に思い出せる。

アルローというシャンパーニュ地方の小さな作り手の2001年のものだった。
しかも “ブラン・ド・ノワール” 赤ワイン用ぶどう品種で作ったシャンパンだ。

とてもきれいな金色の泡立ちと、気品のある薫り。口の中で気泡と香りが膨らみ、収縮しながらしっかりとした酸味とほのかな完熟ぶどうの味わいが喉を流れる。

複雑な旨味が下の奥に残した余韻を密かに楽しみながら、僕はラタテュイユに生ハムを添えて出していた。

そう、僕の予想に反して、理想的な晩餐が始まる。

この人、本人が言うだけあって、食べなれている。
料理の味もよく分かっていた。

ラタテュイユとは、要は野菜のごった煮だが、僕のラタテュイユは煮ない。
簡単に説明すると、ズッキーニや茄子やピーマンをそれぞれべつに、一切れ一切れがきれいに色づくよう少量ずつポワレする。色づいたらニンニクを加え、すぐにザルにあけ、酸化した余分な油を捨てる。全ていため終えたら、別に完熟トマトから作った、ラタテュイユ用のトマトソースに入れ、余熱でなじませ、一体感のある味に仕上げ、一日冷蔵庫に寝かして味をまろやかにし、次の日に酸味と塩味のバランスを整えて、生きた酸によって全体の味を引き締め、提供する。

それを食べて、
『お、バニラの薫りがするのは珍しい。』
と。
隠し味に使っているものをぴたりと当てられた。

ちょっとまて。

この頃こんなことばっかりだ。。。

“世界はひろい・・・”
(世界は怖い・・・。)

僕はもっと謙虚になろう。

隠し味なのだから、当然気づかれてはイケナイ。
分かるか分からないかくらい微量にいれて、味をより複雑に、官能的にするもの。
それが、ひと言目に言われるなんて。

それに加え、ラタテュイユに会わせて持って来たのがこの ブラン・ド・ノワールのシャンパンとは…。
僕の香りが強いラタテュイユと合い過ぎる。
意図せず、隠し味のバニラが(もう隠れてないけど)シャンパンとラタテュイユとをより絶妙なマリアージュにしている。

ちょっと怖くなって、オーブンへ丸鶏の様子を確認しにいった。
思わぬプレッシャー。

想定外。

丸鶏は特別なことは何もしていない。
ただ、香味野菜とハーブを一緒に入れてのオーブン焼き。
オーブンの扉を開け、視覚で焼き加減、嗅覚で庫内の香り、聴覚で油の音、風の音から温度と火入れの状況を推察しながら、バターを加えてアロゼする。

シンプルなだけに、細心の注意が必要だ。
ごまかしは利かない。

大家さんはシャンパンと同時に開けておいた赤ワインをほんの少しグラスに入れて、香りを嗅いで、僕にわたす。

なんて芳醇な香り・・・  。


っと、すいません。
この日の晩餐はまだ続きますが、思い出すのはこれくらいにしておきます。 
長くなりすぎてしまうので。


さて、この大家さんの正体は?

この方は藤さん

10代からフランスに来ていて、フランスの某有名大学卒。もう20年以上フランスで過ごしている。
奥さんはエリザベスさん。子爵の家系に生まれたとても優しい温和なフランス人女性。

藤さんはWebサイトのシャトーマガジンの編集長。
http://www.francechateaux.jp/TOP/home_2.html
写真家でもあり、評論と、写真を一人で二役こなせる器用な人。

ワインに関しては、フランスからシュヴァリエ勲章を8個も貰っている変人。

フランス上流階級と付き合いがあるだけあって、とても博識。
音楽にも造詣が深く、仕事部屋には、古いアンプやら、どでかいスピーカーやらいろいろあって、やたらクオリティの高い音楽を聴いている。
アップテンポなジャズから荘厳なパイプオルガンまで、壁一面にCD。

ということで、前回 僕が否定しまくった藤さんの話は全て本当でした(猛省)。

世の中には、僕の理解の外を歩まれている方が きっと、他にもたくさんいるのでしょうね。

藤さんと出会ったおかげで、アルローの作り手と懇意になり、その家族に料理を振る舞う代わりに、垂直デギュスタスィオン(僕の生まれ年の1976〜2000年のミレジメシャンパン)をさせてもらったり、ロマネ・コンティのリシュブールなど普通はなかなか飲めないワインばかりを飲ませていただきました。(もっとも、常にそのワインに見合う料理を求められたので、金銭的にも技術的にも時間的にも 非常に大変ではありましたけれど。)

王道と言われる伝統的ワインは藤さん、自然派ワインはジャンパスカルとイヴ・シャルル(シェフ)に教わるという、僕には身に余るとても贅沢な教師を持つことになったのです。


最後にひと言。

藤さん、いかに当時本当に思った事とはいえ、正直に失礼なことを書いてごめんなさい。。。


記念すべき、第一件目のご予約が入りました。

日本でのご予約第一号は、女性お一人参加限定食事会 ”カッチェル” 様となりました!
9月21日に8名様のご予約ありがとうございます。

第一号ですので、ちょっと張り切りすぎてしまうかもしれません。
“カッテェル”様には、これからずっと思い入れを込めて料理をさせていただきたいと思います。

21日、カッチエル様のご予約枠を少し増やすことに致しました。
皆様ふるってご参加くださいませ。
http://kikibitoomigoto.tamaliver.jp/


ランジス!?

では、改めまして、”フランスの7年半” 再開です。

前回までのあらすじ

全くの無計画で単身フランスに来てしまった2003年の6月。
初めての海外。
フランスに対する知識もなく、言葉も喋れず、知り合いも、つても、何にもなしで、それでも何とかなるさとパリまで来れたのは、生来の楽観的な性格から。
パリのシャンゼリゼ通りでの奇跡的な再会により、一件目のレストランが決まり、その後 半年の間に数々の大切な出会いを経て、今は2004年の2月。既にパリで3件目のレストラン。
僕の人生において、なくてはならない出会いといえるレストラン。





 僕がパリの14区にあるレストラン ”ラ・メゾン・クルティーヌ” で働き始めて幾日か経った頃。
朝8時30分に出勤して、デザート担当としての仕込みを始めていると、でっかい木こりのような大男(シェフのイブ・シャルル)が、丈の長い白衣を着て両脇に大きな箱を抱え、裏口から入ってきた。
何事かと思って茂野さんに聞くと、今日は「ランジスの日」らしい。

 ランジス。そういえば、前の店、”ルレ・ルイ・トレーズでも、たまにムッシュ・マルティネスが行っていた。
ランジスとは、パリの郊外にある大きな卸売り市場。日本の築地のようなもので、食材から、調理の備品まで、ほとんどのものがそろう。

 とりあえず仕込みを中断して、全員でシェフが買ってきた食材をシェフ愛用の紺色のワゴン車へ取りに行くと、その荷台に積まれた食材の量に驚いた。

 紺色のワゴン車から
牛乳38リットル、生クリーム42リットル、バター24ポンド、鴨油30kg、小鴨24羽、ユープという鶏12羽、野生の森鳩24羽、仔羊丸のまま2頭、仔牛の骨20kg、仔牛の頭2尾分、仔牛の肝臓10kg、仔牛の胸腺肉10kg、キノコ類3ケース、その他野菜やらフルーツやら、出てくること出てくること。
思わず、
『これ何日分?』と聞いてしまう。

あっさり『一週間分』とのシェフの答えに、
『ほんとに!?』と聞き返してしまった。

なんとか場所を作って、新しいものは奥へ、古いものは手前のとりやすい場所へと入れ替える。

 本日のおすすめとしてすぐにでもメニューに載せる食材の、調理法と提供スタイルをシェフから聞いて、ヨーイ、ドン!って感じでそれぞれの持ち場に付き奮闘する。
 出せるのなら今日の昼からメニューに載せるらしい
 って、あと2時間しかないし。。。
 当然ほかに予定していた仕込みもある。
それに加えて僕は新入りなので、まず仕上がりのイメージすらわからない。
一度でも見たことのある料理ならばともかく、イヴの説明だけで理解するにはイブ・シャルルを知らなすぎる。

やはり聞くしかない。

で、茂野さんに頼ることとなる。

しかし茂野さんも仕込みに追われているので、さっくり聞いて、あとはなるようになるよっていうかんじで仕込み始めた。

(しかしランジスか〜。食の都パリの食事情を一手に引き受ける場所。興味ある。行ってみたい。来週も行くのかしら・・・ちょっと聞いてみようかな。)


という具合で、シェフに次回連れて行ってくれないか聞いてみると、あっさりOK。
ただ荷物持ちが欲しかっただけだというのは後になってわかるのだけど。

『そうか。なら来週の火曜日な。朝5時に店の前で。」とシェフ。

朝5時!?と思ったけれど、言葉にはせず。
ま、しかたない。

いったいどんな場所なのだろう・・・。

新鮮なたくさんの食材と共にふれあう時間への期待感と、シェフと2人きりの時間を過ごすことへの緊張感がおり混ざるとても引き締まった心持ちとなるのでした。







いざ、ランジスへ   2004年 3月2日

 そして一週間が経ち、とうとう待ちに待ったランジス行きの前日の夜営業後。

 一応シェフに確認しよう。

 シェフは常連さんのテーブルで一緒にワインを飲んでいた。
(お客さんの前にはできるだけ出たくないのだけれど仕方がない。)
 心を決めて、客席へ。
 目指すはシェフの座るあのテーブル。

 サービスのフランス人には、(何しに出て来たんだこの日本人は)的な目で見られ、ちょっと怯んだけれど今更調理場に戻るのも変な格好だから、お構いなしに一直線にシェフの座っているテーブルの横まで来た。

「失礼します、シェフ」 (内心、”客席に出てくるな!”と怒られるかと思ってドキドキ)
『お〜カズ、どうした。』(おっ、思ってたよりも友好的。よし、聞くだけ聞いてさっさと帰ろう。)

「明日はランジスへ行かれますか? 僕は付いて行ってもよろしいのでしょうか。」
『ん!?』
「先週ランジスへ付いて来ても良いとシェフの了解を頂いていたのですが・・・。」 
『あ〜そうだったな。来たければくるがいい。」と、常連さんの前なので得意顔。
「では明日の朝5時にお店の前に来ればよろしいのですね?」
『おう朝5時だ。ところで君は、自然派ワインは好きか?』
 
 そう話し、支配人にワイングラスを持ってこさせると、上機嫌にテーブルにあった赤ワインを注いで僕に渡す。

 僕はそのまま、常連さんが帰るまでつき合うことになりました。
 シェフと常連さんの話を聞き、うなずいてみたり、たまに聞き返してみたりと、なんとか場の雰囲気を壊さないように必死です。 半分以上は何を話しているのかわからず、いきなり会話を振られても、当たり障りのないことを答えて、できる限り料理やワインの話に持って行く。(でないと話の内容が全然わからなくなるので)

 やっと常連さんが帰ると、もう既に夜中の2時。(それもそのはず。営業が終わったのが23時半頃だったし。)
 時計を無言で見ていると、
『カズ、明日は朝6時な。』
 とシェフ。
「はい。」
 ・・・・ちょっと助かりました。


 そして次の日。
 午前5時50分にレストランへ行くと、ちょうどシェフが2階の自宅から降りて来た。
『おはようカズ。」
 そう言って、レストランに入り、僕も来るように促した。
 付いてゆくと、コーヒーを入れてくれている。フランス人の朝は、やはりコーヒーなしでは始まらないようだ。
 二人でレストランのおいしいエスプレッソに砂糖を入れて飲み干し、”よしっ”と紺色のワゴン車へ乗り込む。 
 乗ってみると思ってた以上にオンボロな車。
 
 フランス人は、自分の愛車をよく ”俺のオンボロ車” と愛着を持って呼んでいるけれど、みんなほんとにオンボロ車なことが多い。
 
 そして驚くことに、こんなにもオンボロなのに、盗難防止の警報装置が運転席の下の方に付いていて、それを解除してからキーをまわしエンジンをかける。
 不思議に思って聞いてみると、車のドアを開けてから20秒以内に警報機を解除しないと、けたたましいアラームが鳴り響くらしい。(朝からそれはつらい。)
 こんなオンボロ車を盗む人などいるのだろうかとも思ったけれど、オンボロでもやっぱり愛を持って乗っているんだな〜と変に感心しながら、とてもきれいとは言えない車内とのギャップに日本人との価値観の違いを感じた。

 日本では、警報機をつけるくらいの車は、常に洗車してピカピカな車。
 フランスでは、車は一つの道具。必要以上の手入れはしないのがほとんどなのに、愛着を持って使用し、警報機はつける。

 さて、シートベルトをキチンと締めて発進。
 
 いざランジスへ。 
 
 車内ではラジオから音楽が流れ、だからあまり無理に会話しないでいると、結構早くランジスまで着いた。
 どうやらランジスはパリの南側に位置するらしく、レストランのある14区もパリの南にある為、とても近くて便利だとシェフは言った。

 とうとうランジスの入り口に来た。
 まるで高速道路の料金所みたいなところ。
 そして中へ。

 ・・・結論から言うと、とんでもない広さだった。
 築地の10倍いや、20倍はあろうか。

 入り口の料金所みたいなゲートを、通行証をかざしてくぐり、目当ての倉庫まで車を走らせ、まずは肉の卸売り倉庫の前へ。既に脇にはたくさんの車やトラックが止まっている。  
 これは何平米なんだろう。とにかくでかい。
 いくつもある肉の倉庫一棟一棟が独立してでかい。

 車を止め、裏口のようなところから倉庫へ入ると脇に牛の骨や仔牛の頭、なんだかわからない肉の塊などの横を通って、目当ての肉屋へ。
 倉庫の中には、いろいろな食肉屠殺解体業者が集まっていて、なんだか築地と似ている。

 シェフはいきなり足を止めてムッシュと握手をしたり、そうかと思うと別の人と話し始めたり、なんだかいろんな人と知り合いだった。
 僕は僕で周囲のすべてが気になるからきょろきょろしながら、でもシェフにも目を配っていないと、迷子になってはたいへん。
 
 いきなり僕を紹介しはじめた。僕も握手をし、挨拶をする。
 いつも内蔵系を買うのはどうやらこの主人かららしい。
 今日はリ・ド・ヴォー(仔牛の胸腺)のいいものが入ったとか、いろいろ話している。
 ぼくは、仔牛の肝臓がズラっと並んでいるのに目を奪われ、どれが一番ものがいいのだろうかとか、無意識に考えていた。どれもとてもきれい。
 だけれどわずかに違いがある。
 ピンクと赤紫の間の色合い。プリンっと張りがあって、はちきれそうな程膨らんでる。
 僕はずらっと並ぶ肝臓のどれをシェフが選ぶのか目星を付けてみた。
 シェフは僕の第二候補のものを選んだ。
 自然に疑問が湧く。なぜなのだろう。
『こちらは、そちらのものより小振りで、なおかつとても張りがあり、よりピンクに近い赤紫をしている。理想的なのはティエリー(レストランの支配人)のように、血色良く小さくてまん丸に膨れている奴なんだよ(笑)』だそうだ。
 
 次。この仔牛のタンの中ではではどれだろう。
 またはずれ。なぜなのか聞く。
 次・・・。

 いやーたのしい。 

 こんなぐあいに、どの店に行ってもとにかく目新しいことばかり。
 シェフが買った食材を車へと運び、次は鶏屋さんの集まる倉庫へ車で移動。
 また倉庫の脇に車を止め、鶏や鴨やウサギをぶっしょくする。

 そして、魚屋の倉庫へ、次は野菜の集まる倉庫へ、倉庫間の移動は常に車。

 たくさんの人に紹介されながら、たくさんの質問をして、たくさんの荷物を車へ運んだのでした。

 気づいたらもう朝の9時15分をまわってる。
 どうやら、僕がとても楽しそうだから、必要以上にランジスを案内してくれたらしい。

『カズ、レストランに戻るぞ。』

 そう。当然僕はこれから仕込みをしなきゃいけないわけで、それに加え、今回は少し買い過ぎ気味。(僕にいろいろ説明するうちに欲しくなってしまったと思われる食材が結構あるし。)

 このままではレストランに着くのは10時くらいになるだろう。
 いつもよりだいぶ仕込み時間が短くなる。

 頭の中で、最低限、昼営業までにしなくてはならない仕込みの量と段取り、手順をイメージしながら、帰路についた。







プロフィール

阿佐ヶ谷のシェフ

Author:阿佐ヶ谷のシェフ
kazuyuki ZENTO (善塔一幸) オーナーシェフ

フランスでの最高の7年半を終え、帰国。
パリ14区に実在した一ツ星レストランのエスプリを引き継ぎ、 “La Maison Courtine" 阿佐ヶ谷でオープン  
場所 杉並区阿佐ヶ谷南3−37−10Ysディセンダンツビル1F

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